心を鎮める段階と心を動かす段階(同テーマ&時系列の前記事)

瞑想は有から無、そしてまた有になる

2021-08-04
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想は最初は具体的な対象があるところから始まります。呼吸だったり眉間だったり何がしかの集中する対象があるわけです。そしてやがては集中が極まり、いわゆるゾーンのような状態になって、そこまで集中が高まると今度は無の境地へ入っていきます。

無の境地はそれ自体である程度の達成で、その段階では顕在意識が集中してゾーンに入ることで物事がありのままに見れて心が静まった状態になるわけです。

このゾーンを無というのか有の集中とするのかは言い方だけのお話で状態としては同じで、雑念が消えて心が静まるので無ではあるのですけど集中の対象はありますので完全な無ではなくて集中の対象としての有はあるのですけど無心と言ってもいい状態かと思います。

そのように、最初は何かの具体性のある「有」としての瞑想から始まって、有を極めると「無」の世界へと入っていくわけです。

その「無」の世界は何もないかというとそうではなく実際にはゾーン状態において対象を識別している心が働いているわけですけれども雑念に惑わされない状態になっているが故にアスリート等が高パフォーマンスを出すことができる領域なわけです。

ですから、無心とは言いつつも心はあって、ですけど、強い集中のゾーン状態に頼っている無心の状態なわけです。それをゾーンというのか無心というのかは言い方の違いだけで割と同じことだと思います。

そのように、有と無の極みとしてのゾーン状態があるわけですけれども、それは瞑想で言いますとダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)という状態なわけで、まだサマーディ(三昧)ではないわけです。

サマーディの前までは割と「無」としての心の平安、静寂の境地と言ったものに頼っています。

しかし、サマーディになりますと急にその「無」だった筈の世界が「有」として開けてきます。この段階になる以前は自分の内側に入っていって「無」の境地を探究していたのが、サマーディになると「外側」の世界が自分と少しづつ同等になってきて世界を「有」として認識し始めます。

これはとても微妙なお話で、サマーディ以前に「外側」というと欲望の世界を意味しますが、サマーディであれば「外側」も「自分自身」なわけです。その、自分自身である世界を「有」として少しづつ認識し始めるのがサマーディの段階なわけです。

心を鎮めましょう、というお話はサマーディ以前であっても以後であっても基本ではありますけど心を無にするというお話はサマーディ以前のことで、サマーディ以後であれば心は常に存在していて世界を認識していますから無にはならないわけです。

最初はサマーディの力が弱くてサマーディから落ちた時に無になってからサマーディ状態に戻る、ということはありますけど、サマーディ状態であればそれは有なわけです。

瞑想を始める前の有の状態とサマーディの有とは全く違う状態ではあるのですけど傍目から見たら違いが分かりにくく、瞑想を始める前に外側の世界を楽しむことは単なる遊びでしかないですけどサマーディで外側の世界を遊ぶことはそれ自体がある種の修行のようにもなるように思います。サマーディ状態を保ったままどれだけ外側の世界で活動できるか、という行動の範囲はサマーディの深さに比例すると思いますし、最初は静かな行動でもサマーディ状態から落ちてしまいますけど、次第に、段階的に、少しづつ複雑な作業においてもサマーディ状態を保てるようになってきているような気が致します。これが、チベット仏教でいうところの「サマーディを生活と混ぜてゆく(セワ)」ということなのかな、という気も致します。



心を鎮める段階と心を動かす段階(同テーマ&時系列の前記事)