瞑想は有から無、そしてまた有になる(同テーマ&時系列の前記事)

喉に通るエネルギーを止めると静寂の境地になる

2021-08-05
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

一つのテクニックとして、喉を上下に流れているエネルギーを喉の少し上で止めると頭の思考が止まって静寂の境地になります。喉そのものではなく、ちょっと後頭部に近い方の箇所にバルブのようなものがあって、そこを意識して締めるような感じにしてあげるとエネルギーが頭の方に行かなくなって思考が止まります。

そのまま止めたままにしてしまうと頭の光のオーラがなくなってきてしまいますので思考が止まった後はすぐに締めを開放してあげてエネルギーを再度通すようにします。

こうすることで、頭の思考が一旦止まって、それによって頭のモヤモヤあるいはモヤモヤとまでは行かないまでも水垢のように薄くついている汚れがかなり取れて意識がクリアになります。

これは、瞑想をそれほどしていない場合はそもそも喉のところのエネルギーが通っておりませんのでやろうとしてもほとんど感覚もなくて効果もないわけですけれども、基本はエネルギーを通す状態にしておくのが良いのですけど、一時的にエネルギーを止めることで頭のあたりのエネルギーを枯渇させて思考を止めて、モヤモヤとしたものあるいは水垢のような汚れですらもそれは基本的にはエネルギーの一形態ですから、エネルギーが枯渇しようとするとそのような汚れであっても消費されるわけです。池の水を一旦抜くと底が見えて掃除もできるのと同じように、汚れた水は一旦抜いて、再度水(エネルギー)を満たしてあげることで意識がクリアになります。

最近は私は2つの方向性のどちらに向かうか決めかねているのと同時にそれ自体が何なのかを見極めようとしているのですが、その1つは静寂の境地で、もう1つは、割と雑多な想念の基礎として浸透しているアートマンを追求するという方向性です。

静寂の境地を基本として更なる静寂の境地を追い求める方が良いのか、あるいは、雑多な想念を入れてその奥底にあるアートマンを見出す方が良いのか。そこは微妙なところです。

どちらもそれなりの根拠と効果があるような気がしてきていて、最近は割と「静寂の境地→雑多な想念とアートマン」という理解でいましたけど、もう終わりかと思っていた静寂の境地のそのまた奥に何かあるような気が最近はしてきていて、ひょっとしたらグルグルと回っているのかもしれない、という気もしてきています。

それは、ある段階において静寂の境地と思われていたものが次の段階になればそれは雑多な想念であるし、次の段階としての静寂の境地になっても、もしかしたらそれすらも次のレベルからしたら雑多な想念であるかもしれないわけです。

静寂の境地から雑多な想念に戻ってその奥底のアートマンを見出す、という理解でいたのですけど、実際には、静寂の境地だと思っていたものが次のレベルの雑多な想念だったのかもしれない、という理解になりつつあります。この辺りはとても微妙で、自分の感覚でしかないので、静寂の境地と思っていたものも主観的な感覚ですので、戻っていたと認知していた感覚が実は同じものを見ていて、よりはっきりと見えるようになってきたが故に戻っているように感じられていた、ということかもしれないわけです。静寂の境地だと思っていたものをはっきりと見極められるようになるとその静寂の境地は実はもう少し微細な雑多な想念でできていて、感覚としては戻ったような気がしていましたが、実は同じものかもしれないわけです。

喉の少し上でエネルギーを止めるというテクニックは喉にエネルギーが通った後であれば割とどの段階でも使えるような気がしてきていて、雑多な想念があるなと思ったらエネルギーを一時的に止めてみると思考が止まって、もしかしたらこれがヨーガでいう「ラヤ」状態かもしれませんけど、その状態で更に静寂の境地が深まるわけです。そして、静寂の境地が深まったら締まりを緩めてエネルギーを再度通してあげます。



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