自分の意識はハートのアナハタを中心にして周囲へと広がっており、自分の少し外側にまでその領域が達していますが遠くになるにつれて次第に薄くなって行きます。
一方、思考する心であるマインドが働く時も同様にハートのアナハタから水面の波紋あるいは衝撃波のように波が作られ、それが周囲へと広がってゆきます。
意識はより微細ではありますけど、思考する心とも一部重なっていて、意識がマインドに働きかけることによって意識よりもう少しだけ粗雑なマインドの機能が働いて思考の波を同じアナハタに作り出します。
意識が動く時も小さな波が作られますけど、マインドが動く時はもっと大きな波が作られます。
意識としての感覚はマインドよりももっと遠くにまで広がっていて、周囲から聞こえる心の声のような波をキャッチします。それははっきりと「外側」として感じられ、又、強さとしてはとても弱い思考の波です。
自分のマインドが黙って静かにしていても、そのような「外側」から来る心の声の波は止まることがないわけです。自分が黙ることができるのは自分のマインドの思考についてだけで、周囲から不意にやってくる思考の波を止めることはできないわけです。と言いますのも、「意識」は常に観察し続けるからです。
とは言いましても基本的には周囲からの雑音のような心の声はとても弱くて基本的には意識の妨げになりません。ただ、その雑念に共感してしまって自分の心のマインドを働かせてしまった場合は周囲からの雑念がトリガーとなって自分の思考のループが始まってしまいますけどそれなりに浄化が進めばそのようなループになることはなくて、ただ自分のマインドが静かに黙って意識が観察し続けるという瞑想をすることができるわけです。
そのように、明示的にマインドの思考を働かせるという感覚があるわけですけど、瞑想が進んでいない場合はその感覚がよく分からないわけです。
明示的、ということは、意識がそう意図することでマインドを働かせない、ということも意識的に行うことができるわけで、それは意識を働かせるというよりは意識を制御して律することでマインドを動かさない、という状態なわけです。それはマインドを動かさない、というよりは、意識を観察状態に保って意識をマインドを動かすように意図しない、ということでもあります。
マインドの思考を働かせるという感覚それ自体は観察ですけど、その一方で、意識は「働きかけ」という作用もありますので、意識でマインドに働きかけない、という状態がマインドが黙っている状態なわけです。
マインドが黙っても「観察」の状態は続きますので、意識は自分のマインドが黙っていることを観察して、それと同時に、周囲から入ってくる小さな雑念も観察しますけど、意識はマインドを働かせずに観察の状態を保ちます。それが瞑想です。
これは理屈だけのお話ではなくて、実際に瞑想の中で感じて識別できるお話なわけです。