ヴェーダンタで言われているように本当の私は真我(アートマン)であるわけですけど、それは日本語でざっくり言うと魂のようなものであると言えます。
魂に相当するアートマン(真我)があって、その真我をベースにして(真我の上に)マインド(心)が存在しています。
心と言うと思考する機能(マインド)だけでなく魂のことも含意する時が日本語ですと時々文学表現であったりするように思いますけど、ここではマインドは思考する機能という位置付けの心であって、その思考する心(マインド)はアートマン(真我)を基礎に置いています。
アートマン(真我)という微細な核があって、それよりもほんの少しだけ粗大なものとしてのマインド(思考する心)があるわけです。
この構造において、想念形態というのはマインド(思考する心)および、アートマン(真我)とまではいかないまでももう少し微細なサムスカーラ(印象としての心)の組み合わせでできていて、この表現の仕方はヴェーダンタというよりは神智学的な表現になってしまいますけど、そのような、マインド(思考する心)とサムスカーラ(印象としての心)が一人歩きしてしまうことがあるのです。それをひとまずここでは想念形態と言っていますけどこれは確立された用語ではなくてどこかで聞いた言葉をとりあえず借りているだけですけど、マインドとサムスカーラのセットが一人歩きしてしまって次の人生を作り出すことがあるのです。
ヴェーダンタで言えば全てがアートマンであり個としての概念のアートマンが実は全体のブラフマンと同じ、ということですので、実際のところそれらのマインドやサムスカーラであってもアートマンではあるのですけど、実際のところ、引き継がれる成長したアートマンと、そうでもないアートマンがいるのかなと私は考えております。
これはヴェーダンタで言われていることではなくて私の感覚としてそのように理解しているということですけれども、経験を積んだアートマンはその引き継ぐマインドやサムスカーラも洗練されているけれども経験の少ないアートマンはマインドも機械的でサムスカーラも乱雑としている、というのが印象です。
厳密にテクニカルワードで言えばアートマンそれ自身は経験することがなくて永遠の存在ですので経験とは無縁なのですけれども、実際にはアートマンは必ずグナ(粗大な物質の3つの要素であるサットヴァ、ラジャス、タマス)と常に一緒にありますから、経験とも密接な関係を持っているわけです。
このようなアートマンとグナ及びマインドとサムスカーラの関係に置いて、アートマンそれ自身は純粋であったとしても、マインドとサムスカーラが一人歩きする時があるのです。
これは単純な輪廻転生として捉えることもできますけど、実際にはアートマンは輪廻転生をせずに永久に存在しますから、輪廻転生するというのは基本的にはサムスカーラとそれに付随するマインドの部分なのですよね。
これをもっと細かく見ていきますと、まず、人が死ぬ時に、最後まで残ったサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)がそこに残されます。
世間で言われているように死んだら無になってサムスカーラ(微細な印象)もマインド(思考する心)も消えてなくなってしまう、というのは嘘で、実際には、サムスカーラとマインドが残ります。
その上で、それなりに精神的に熟していて落ち着いている人の場合はアートマンとサムスカーラとマインドが一体になって次の人生に入るか、あるいは、解脱にまで達していて昇天できる場合は転生せずにアートマンが「全体」あるいは「グループソウル」と言われているものに合一してサイクルを終えます。
ですけど、欲望や快楽に満ちた人生を送って精神が分離をしていたりしますと、アートマンと「サムスカーラとマインド」が切り離れるように思います。これは語弊がある表現かもしれませんけど、もっと微細に言いますと、「アートマンと純粋なサムスカーラと純粋なマインド」と「アートマンと混乱したサムスカーラと混乱したマインド」の、大きく分けて2つ(あるいはもっとそれ以上)に分裂するわけです。
そうして、片方はもう昇天して解脱に満ちた状態になるかもしれませんし、一方で、残された方は以前より悪いところだけになって地上に残され、輪廻転生を繰り返します。
この後者は、傍目から見ると「アートマンは昇天して、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが地上に残された」ように見えます。実際はアートマンは全てのものに浸透してこの世の空間に満ちていますからアートマンでなくなるということはないのですけど、傍目には、混乱したマインドとサムスカーラだけが地上に取り残されて欲望と快楽に満ちた人生を繰り返すことになります。
こうなると混乱したマインドとサムスカーラは手のつけようがなくなって、切り離されて昇天した方のアートマンからしても悔いが残ることになり、一旦は昇天したけれどもまた微細な印象(サムスカーラ)が生み出されて分霊を作り出し、地上に行くことになったりします。
これを聞くと、また輪廻転生のサイクルに入るのであればそれは解脱とか昇天というのだろうか? という疑問が生じるかもしれませんけど、ここで行われているのはサムスカーラによる衝動的な欲求ではなくて選択的な判断であり、分霊を助けに行くという選択をすることもありますし、あるいは、グループソウルからするとまだ選択肢があって、もう1つは「見捨てる」、あるいは「(不純な存在であったとしても)グループソウルに合流させて受け入れる」、はたまた最後の手段として「消滅させる」という手もあります。
見捨てる場合は、もう、そのままです。放っておきます。もはや関与しません。
消滅させる時は、その分霊は失敗作ということで消して終わりです。経験などは直接は引き継がれませんけど、外目から観察はしていますので一応の反省はなされます。
グループソウルに合流させるという選択もあって、その場合はグループソウルがそのカルマの全てを受け入れて、それぞれのカルマを解消して行くことになります。
このように、混乱したサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)というのは切り離されてその後はグループソウルの判断に委ねられるわけですけどどちらにせよ、このように分離してしまったサムスカーラとマインドというのは厄介なものでスピリチュアルなことがほとんど理解できなくて肉体が全てで欲望と快楽に生きる人間になりますから、周囲からしたら迷惑な存在であることは確かなわけです。
そのような機械人間になってしまうことが「分離」とかスピリチュアルでは言われていたりするわけですけど、それは心と魂が分離しているというスピリチュアルな意味も確かにありますけど、それに加えて、このように、本来のグループソウルが意図したところから分離してしまって想念形態が一人歩きして何度も転生を繰り返して欲望と快楽に生きている、という意味合いもあったりするわけです。
そのような快楽人間・機械のような欲望だらけの人間が増える世界というのがあって、今の世の中は日本以外では割とそれが優勢だったりもしますけど、日本にも外国の悪影響が現れていたりするわけです。
ここで言っているのは割と日本でよくあるようにスピリチュアル的に成熟したグループソウルの場合で、外国ですとグループソウル自体が欲望にまみれている場合もあったりしますから状況は違うのですけど、程度は違えども基本は一緒で、グループソウルが意図して分霊を作り出して転生するけれどもその転生で失敗したりすると純粋なアートマンだけがグループソウルに帰って行って、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが想念形態としてこの世に生き続けて輪廻転生を繰り返し、欲望と快楽に満ちた人生を作り出すことがあるということです。