スピリチュアルの成長の歩みを当然のものとして受け入れる

2021-08-18
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルの階梯を学んで「こうなろう」と思い描いたり求めるところから始まりますけど、実際に成長したり自らの状態が大きく変わるのはそのような、顕在意識が「求める」気持ちがなくなって当然のものとして受け入れたときに大きく変わるような気が致します。

それは一回で終わるものではなくて、その時々において次の段階の状態が思い浮かんだりするわけですけれども、次の段階は一応は目標および方向性として見極めはしますけど、そのことを思い描いで「こうなるぞ」と思う必要はそれほどなくて、一応は方向性として確認するくらいで、成長を当然のものとして受け入れるといつの間にか自分が成長して状態が大きく変わる、という事が段階的に繰り返されるような気が致します。

その時々において、傍目にはそのような成長がとても難しく感じられる時もあり、そのそれぞれの階梯において階段のステップがとてつもなく大きくてとても無理だと感じられることもあったりしますけど、その時に、諦める必要もなくて、かと言って、簡単だと自分に思い込ませる必要もなくて、それも全てお導きによってなるようになる、というおおらかな気持ちでいればいいような気が致します。

それを流派によっては「他力」だとか「他力本願」あるいは「絶対者の祝福」とか「キリストの恵み」とか色々な名前で呼んだりするかもしれませんけど、それは表現としてそのように言っているだけで、実際には、自らの奥底の根源に委ねる、という点では変わりがないわけです。

ここで、実際には自らの根源に委ねているわけですけれども、顕在意識からしたら特に最初は根元の意識であるいわゆるアートマン(真我)とは切り離されておりますので、顕在意識のマインド(思考する心)からしたら他者・他力のように感じられるだけで、実際にはアートマン(真我)の働きによって導かれて成長してゆくわけです。

ですから、それは実際には自分自身であるのですけれども他者あるいは他力、はたまたキリストの導きのように感じられたりはしますけど、実際には、それはアートマン(真我)の働きであり、実際にはそのアートマン(真我)は「全体」であるブラフマンと同一でありますから、最初は個としての分かれたアートマン(真我)としてその「他力」あるいは「キリストの導き」は感じられますけど、実際には、その後、その導きは「全体」のものへと変わってゆくわけです。

その導きは段階的にずっと続くわけですけれども、最初こそ自我の動きによって「求める」という行動が必要なわけですがそのうち自我による求めから、アートマン(真我)による当然の働きとしてスピリチュアルな歩みが進むようになります。