エネルギー重視のスピリチュアル

2021-08-22 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

パワーと言い換えても良いですし愛と言っても同じことですけどエネルギー重視のスピリチュアルというものがあって、一方、理屈重視のスピリチュアルというものがあります。

エネルギー重視のスピリチュアルは、エネルギーが高まりさえすればポジティブになって雑念は消えて悟りに至ることができる、というお話です。

一方、理屈重視のスピリチュアルは文字通り理屈で一歩一歩歩んで悟りを得る方法です。

個人的には理屈を学んだりしたこともありましたけど基本的にはエネルギー重視のスピリチュアルの道を歩んでいて、理屈は道しるべあるいは自分の状態の確かめとして使っています。

世の中には理屈で悟るという人もいて、ヨーガあるいはインドのヴェーダ的にはニャーナ(知識)の道、とか言われていたりしますけど、そういうお話もあるかと思います。

エネルギー重視のスピリチュアルは割と力技のようなところがあって、エネルギーが高まる前は単なる理屈のお話でしかなかったものがエネルギーが高まるだけで腑に落ちてよく理解できる、ということがよくあります。

ですから、理屈を勉強するのも良いですけどあまり頭でっかちになってしまうのも良くなくて、理屈を勉強するうちに自分がわかったと思ってしまったり既にそのような状態になっていると自分で自分を誤魔化してしまったり自己催眠のように自身を錯覚状態に陥らせてしまうこともあるわけです。

ですから理屈と実践とどちらも大切なわけですけれども、個人的には、エネルギーだけでも割と十分かなという気がしないでもないですけど道標としての理屈もかなり役立ってはきました。

この、理屈とエネルギーのお話には誤解があって、流派によってはエネルギーとかは関係なくて理屈だけで悟ることができるとか言ったりしていますけど、個人的に思うのは、エネルギーの面を抜きにして悟りはあり得ない、ということです。エネルギーを軽視している人は最初からエネルギッシュでパワーに溢れているからこそ理屈が重要と言っていたり、あるいは、言わないだけで途中でエネルギーに溢れる瞬間があったりして、それをエネルギーと言わずに知識に溢れる、あるいは、知識が起こる、みたいに言っているだけのことで、側から見たら同じことなわけです。少なくとも自分にはそう見えます。

エネルギーと言わずに「愛」という場合もありますけど、同じことかなと思います。エネルギーというと「他人に影響、他人を操作するエゴの力」というニュアンスが入る可能性がありますのでそれが嫌な場合は愛と言った方が意味が歪められずに伝わるのかもしれませんけど、純粋なエネルギーという意味であれば同じことです。

言い方は色々とあれど理屈とエネルギーのお話は両輪で、個人的に思うのは、理屈が先行することもあればエネルギーが先行することもありますけど、頭だけの理屈が先行したとしても実感としての理屈が先行することはなくて、頭だけの理屈が先行するかしないかはその時々ですけど、少なくともエネルギー的な高まりがあって初めて本当の実感を伴う理解が来るのだと思います。

言うなれば、理屈(任意)→エネルギー(必ず起こる)→実感(必ず起こる)、という順番ですかね。

理屈も時にはいいですけど、それより、エネルギーが高まればポジティブになって理屈も理解できるようになるわけです。