瞑想とは意識的に行うものですので瞑想中に意識がなくならない方が良いです。とは言いましてもこれは顕在意識で意図して行うものではありませんので、顕在意識の普通の心が「起きていなくてはならない」といくら念じてみてもあまり役には立たないもので、瞑想ができている状態が意識がなくならない状態だ、というだけのお話です。
ですから、目標として「意識が瞑想中になくならない」という状態の瞑想があったとしても、それに行き着くための手段がそのまま「意識がなくならないようにする」と直結しているわけではないのです。
ここに落とし穴があって、多くの流派では「意識がなくなってはダメだ」みたいな感じで強要して瞑想にて強制的に意識を起こすような手段を取っていますけど、残念なことではありますが個人的に思うのは、それは近道のようでいて実は遠回りなのではないか、あるいは、全く変わらないのではないか、と思うのです。
これは私の仮説でしかありませんので万人に通用するかどうかはわかりませんけど、強制的に意識を起こしたままにしようとしても普通はできません。
そうではなく、手段としては「リラックスする」という方法を取ることにより目標である「意識が起きたままにいる」「意識が瞑想中になくならない」に達することができるわけです。
一方、同じ目標に達するために「意識を起こしたままにしよう」とか「目を開けたままにする」とか色々な手法が考え出されていますけど、個人的に思うのは、それはなかなか大変なお話だと思うのです。
それよりは、意識がなくなるのであればそれはそれで良しとして、続けているうちに抗い難いエネルギーが自らの奥底から湧き上がってきて自然にそのように意識が目覚めた状態になりますから、そのようにエネルギー的な変化が起こる前に強制的に手法やら修行やらで自身の意思あるいは師匠の叱咤によって意識を目覚めさせようとしても、それは付け焼き刃でしかないのかなと、少し悲しい現実ではありますけど、そのように思うわけです。
それでは何が助けになるかというと、結局のところ単純なことで、自分の奥底に眠っているエネルギーと意識に頼るしかないわけです。その、自分の奥底にエネルギーというものが実は仏教などで言われている「他力」というもので、自分の中に眠っているけれどもそれは万人に繋がる「全体」としてのエネルギーのうちの自分に分けられた一部でありますから、それは自力でもあるし他力でもあるわけです。そのような自分の奥の意識に頼ってこそ瞑想が成長してゆくわけで、修行で強制的に意識を起こそうとしてもそれはそれほど役には立たないのではないかと思うわけです。
修行は、結局は自らが行うものであるわけで、それに適した手法というものも自分が知っていて、激しい修行も時には良いものかもしれませんけど、個人的には、意識の目覚めというものはリラックスして自然に起こるものかなと思っております。
そして、リラックスするには集中が必要です。何やら矛盾しているように聞こえるかもしれませんけど、まず集中してから歓喜に至り、それからリラックスするわけです。集中を基本としたリラックスの後に意識の目覚めがあります。最初は極度の集中から始まって、やがて自然にリラックスしたまま意識が鋭く冴えるようになります。
基本は自分自身の中にありますし、段階ごとに大切なものも違うわけです。