仏陀が慈愛を何故説くのかについて本山博先生の著作で興味深い記述を発見しました。
お釈迦様は慈愛を説きます。キリストも愛を説いたわけですが、キリストも父親が本当の父親ではなくて、母親が、今流に言えば私生児を生んだわけで、どこかふた親の愛情が足りなかったのではないか、釈迦の場合もそうだと思うのです。愛情に飢えている人が説教をするようになると、愛を説いたり慈愛を説いたりするのが習わしです。 「本山博著作集7」
これは目から鱗で、どうも私にはキリストや仏陀が説く愛や慈愛がしっくりこなかった理由がわかりました。愛や慈愛に満ちているのならばそもそも愛や慈愛なんて言い出さないのです。愛や慈愛に飢えているからこそ愛や慈愛が大切と言う、というのは割と盲点でした。キリストや仏陀が言うのだから正しい筈で、道徳的にもそれを否定するのははばかられるような状況ではありますけど、さすが大家の本山博先生は本質をずばりと突いてきます。こんなこと直接的に言える人はそうはいないように思います。
個人的に、愛とか慈愛とか言われても「ふうん・・・」としか思わなかったのですが、それは実は今もそうで、昔は「私は愛や慈愛が足りないのかな?」とも思ったりもしましたが、それは実際のところ今になってクンダリーニが活性化してサマーディ状態になりサハスララにオーラが満ちても実際のところ変わりませんので、実際のところこのようなことを忘れておりました。頭の中に「愛」とか「慈愛」という言葉は私の中でそれほど大切な位置を占めていなくて、クンダリーニなどのエネルギーの高まりという意味においてそれを別の言い方でいうのならば「愛」と言うこともできる、という文脈で愛を捉えておりました。慈愛というのも、慈愛というと自分と他人との「分離」を前提としているような気がしていて、本来的に自分と他人が同一であるのならばわざわざ「慈愛」なんて言わずに自分や親しい友人あるいは家族に接するように普通に何かを与えたりすればいいだけのことで、わざわざ「慈愛」なんて言うなんて大袈裟だなあ・・・ と心の片隅で思っていて、そんなことを言うなんて野暮なことはしていませんでしたので基本的に口には出さないでいたのですけど、この記述を読んで目から鱗でした。キリストや仏陀は愛に飢えていたから愛や慈愛を説いていたのだとすれば、私は実際のところ家族から人並みに愛されていたと思いますので、そりゃ家族の間に葛藤も多少はありましたけど基本は愛されていたと思いますので愛や慈愛への葛藤というものは基本的に私にはないのです。愛や慈愛に対する基本的な欲求というものがありませんからキリストや仏陀が説く愛や慈愛について「まあ、それはそうなのだけれども」みたいにあまり心を打たない感覚でなんとなく捉えておりました。今後、更に成長すればブッダやキリストが解くような愛や慈愛に満ち溢れた存在になるのかな? と漠然と考えたりしたこともありましたけど、同書によればどうやらブッダやキリストはその到達点だけでなく出発点として愛や慈愛への渇望からスタートしていたようで、であれば、私はそのスタート地点に立っておりませんので、通りで私は仏教やキリスト教のことを素晴らしいと思いつつも信者になっていない理由の1つがわかりました。
仏教ではよく三界(欲界、色界、無色界)ということを言うわけですが、(中略)これはある意味では、お釈迦様はやはり欲望の塊りのようなところがあったのかもしれない。(中略)本当は色界(物質界)の中の一つに過ぎない欲界が、欲界として強くもち上がってくるというのは、お釈迦様が非常に欲ということにこだわりをもっていたと思うのです。(中略)そんなことを言っても、物質的束縛というものがだいたい身体性ということだから、身体をもっているとどうしても欲望はできます。腹が減ったら御飯を食べたいと思う。つまり色界の中にすでに欲ぼうがあるのですが、欲望を超克すると、そこが色界だと言う。これはどこかに無理があるように思うのです。(中略)欲界と言わずに、欲界を色界の中に入れたらいいと思うのです。(中略)悟りの立場から言えば、欲界というものではなくて、色界と無色界の二つの世界における心の高まりを説明してあるわけです。 「本山博著作集7」
これまた明確な説明で、仏教の欲界というのは割とスルーしておりましたけど、こう言われてみますと確かに色界に含めるのがスマートのように思います。納得です。
欲ということそれ自体で言いますとサマーディ状態に達していても肉体を持っている限りは欲というのは出てきますし、何が違うかと言いますと欲が出てきてもそれに囚われずに欲望はすぐに消えてゆくかあるいはその欲が適切なもので生活に必要と判断したならば意識的にその欲を現実化することができるようになるということです。お腹が減ったからと言って食べずにいたら死んでしまいますよね。生活必需品を購入する欲はあって当然のものだと思いますし、生きる上で勉強のための欲というものもあります。欲から完全に離れる、みたいなお話を時々聞きますけど、実際は体がありますからそんなことは不可能なわけです。仏教が言うように完全には離れることはできないのに便宜上欲から離れたことにしてしまうと仏教でも大切にしている筈の「正直さ」から外れてしまい、修行に支障が出てしまうかもしれません。その結果、欲ということに対して鈍感になってしまうようなこともあるように思います。であれば、現実に即して、色界に含めるというのは理にかなっているように思います。
仏教では色界と無色界それぞれ四つの禅定の段階を経て瞑想が進んでゆくと説明されており、同書では最初の色界初禅について以下のような説明があります。
初禅
「欲望を離れ、不善のことがらを離れ(中略)」、これはヨーガで言う精神集中のごく初期の状態です。ここで「欲望を離れ、不善のことがらを離れ」とありますが、精神集中の段階ではそんなふうに欲望を離れられるわけはないと思うのです。誰でも皆、欲望の塊なのだから。ですから、「欲望を離れ」と書いてあるが、それは精神集中をして、何も思わない状態が1秒でも2秒でも出てきたような状態が初禅の状態ではないかと思います。「本山博著作集7」
ということで、やはり、欲界の次が色界というのではなくて欲界を色界に含めるのがよい、という同書の説明になっています。
仏教の方に言わせれば違うお話になるのかもしれませんけど、私が読んだ他の書物でも実際のところそれほど厳密に欲からの脱却を説いてはいなかったように思いますので、この解釈は正しいように思います。
実際のところ、このような真理の探究において真面目すぎるというのは割と重しになって、書物では一応そうは書いてはあるけれども実際のところは自分で経験してみて本当のところを理解する、という大雑把な態度が必要に思います。書物に書いてある状態に厳密にならないからと言って思い悩んだりするのは真理の道においてはマイナスで、書物に関しては割とざっくりとした理解を基本として、自分の経験を元にして理解できる部分を少しずつ増やしてゆく、というくらいでいいのではないかと思います。
宗教の信者であればその流派の全てを信じるかどうかというお話になるかと思いますが、真実の探究者であれば自分がわからないことは一旦理解はするものの受け入れるかどうかは自分が腑に落ちるまでは保留にしておくのが良いかと思います。
その意味で、仏教のお話は一旦は理解していたもののどこか部分的に違和感があって腑に落ちない部分があって、今回の記述でその違和感がそれなりに解消されたように思います。
仏教は仏教でとても優れた記述や解説がありますけど完全ではないということだと思います。
特にスタート地点では顕著で、スタート地点で「愛に飢えている」ところを根拠にしていますから、家族に恵まれて幸せに育った人にとって仏教の説教は響かなかったりするわけですね。これは私に当てはまると思います。一方、現代においては自分で選んで宗教を選ぶよりも二世・三世としてなんとなく宗教に属している方も多いと思われますので、自分は特に愛に飢えてはいないけれども家族がこの流派だから一応今は属しているけれども愛とか慈愛とかよくわからない、みたいな悩みがあるかもしれませんけど、このようなキリストや仏陀の生まれた背景を理解すると、信者の当人にいうと嫌がられるかもしれませんけど、個人的な理解としては有益な情報なのではないかと思います。