瞑想がある程度進めば心理学等はあまり必要でなくなる

2021-09-10 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

心理学や哲学は、アリストテレスやプラトンなど古典の書物を読むとそれなりに瞑想が進んだ方が書いていると思われることも多々ありますが、近年の心理学・哲学は思考する心(マインド)が認知できる範囲のみを扱っていて、マインド以上の領域を扱っていために、思考で問題を解決する、というお話に終始してしまうわけです。

古典の人々は人の思考する心(マインド)以上の世界を受け入れていて、それはイデアとか色々な言葉で言われていたりしますけど、瞑想はその辺りのお話を扱うわけで、思考する心(マインド)は瞑想で言うとまだ入口なわけです。その入口を主に扱っている最近の近代心理学は瞑想者にとっては興味が薄い分野になるわけです。

近代の心理学を作った方々はおそらく本人が思考する心(マインド)以上のことがわからなかったのでしょうし、一方、古典のアリストテレスやプラトンはそれ以上の世界を認知していたと言うことでしょうから、それぞれの立場において正直なのはいいのですけど、古来の人々が扱ってきたマインド以上の世界を扱っていない以上、近代の心理学は瞑想者にとって物足りないお話になるわけです。

基本的に、瞑想者は自分の意識を高めることで超越しようとします。そのことを瞑想の流派によって色々と言葉で言われていたりしますけど、表現が違うだけで同じことだったりします。人によってはパワーを上げる、というでしょうし、波動を高める、と言ったり、あるいは、愛を高める、とか、至福、とか、慈愛、とか、あるいは高次元とか神とか言ったりします。言葉を読むだけですと分類してこれとこれは違う、みたいなお話になりますけど、瞑想者としては結局のところ同じことなわけです。

心理学で自分の思考に対処する、とか、他人の葛藤をなだめる、とか、自分の葛藤を沈める、とか、怒りを抑える、とか色々ありますけど、瞑想が進むとそれらは全て超越してきて、そのような問題とは関わりがなくなってゆきます。

人間ですから日常生活を送る上でそれらの感情とは無縁ではありませんけど、対処方法として心理学がいうように思考を工夫して違う面を理解するようにする、とか、相手を理解する、とか、相互理解を深める、とか、避けるようにする、とか、問題を軽減する、とか、そのような手法はそれなりに有用ではありますけど本質ではなくて、本質は、それらの問題を超越するというところにあるわけです。

そうは言いましても道徳や教養として避けるべきことというのは瞑想していても残りますから不道徳になるということではなくて、問題が発生した時の対処方法として、基本は道徳とか教養とかの手法に一応は頼るわけではありますけど、根本の本質からいうとそれら心理学や道徳、あるいは教養ではなくて瞑想的な視点で超越することによって根本の解決を図るわけです。

超越、ということは、そもそも問題が問題でなくなる、ということでもあります。言うなれば、ゲームの中で起こった問題やイベントが、ゲームを終えてみたら大したことではないのと同様です。日常生活で問題が起こったとしてもゲームのようなもので、本質には関係がないのです。こう言ったからと言ってゲームのように適当に日常生活の問題を軽く扱うということではなく、日常生活は淡々と普通に送るのではありますけど、そのように昔と変わらず普通に生活する中で、その奥の根本に瞑想的な本質があって、その本質が超越した視点を持つということであって、ゲームだから好きにしていいということではなく、ゲームだからいい加減にしてもいい、というわけではないのです。そもそも、瞑想が進めばいい加減とかそういうお話はなくなってゆきますから、いい加減でいい、とか思うのであればそれは瞑想が進んでいない証拠なわけです。日常生活が普通に送ることができて、その中で、その根本の寄り添うところとして根源の瞑想的な意識があって、その根源を超越と言ったりしますけど、超越という言い方が誤解があるのであれば根源、と言ってもいいですし、静寂の心、と言っても良いです。あるいは神意識と呼んでも良いですし、慈愛とか至福とか呼んでも同じことです。そのように、日常の普通の心(マインド)を超えたものがあって、超えたところで生活するのであれば心理学等はあまり必要でなくなる、ということです。