主に2つ。感情の段階(アストラル次元)と、個人的な静寂の段階(コーザル、カーラナの次元)、それぞれで殻が破れるように思います。
まず最初は感情を抑えるための集中から始まって、集中して感情の殻が破れるとリラックスできます。感情が豊かな人が感情を超えて静寂の世界へと踏み込む段階です。
その時点ではまだ個人的な静寂ですが、静寂が深まるにつれて個人的な静寂の殻が破れて、場所的な意識へと変わってゆくように思います。
ヨーガや修験道あるいは仏教などの行者は主に前者の感情の段階(アストラル次元)を扱っているように思います。そこでは主に感情を抑えて静寂の境地に至ることを目的としています。
仏教などで言われているように、楽しみの感情であったとしても苦しみの感情であったとしてもそれは一時的なもので、その一時的なものに執着しているから苦しみが生まれるのであって、その執着を手放しましょう、というお話はそれ自体は確かにその通りではあるのですけど、そこで言われているのは主に感情の段階(アストラル次元)のお話なのですよね。
修行するようになった最初の目的に則して修行が進んで、感情への執着から離れて静寂の境地になったとして、それはまだ個人的な静寂であって、場所的な意識へとまだ昇華していないわけです。ですけど、多くの流派では個人的な静寂の境地を持ってして解脱に至ったとか悟りと同じ(阿羅漢など)と見做していますけど、それはまだアストラル次元のお話なのですよね。
昔はこの辺りがよくわからなくてごっちゃにしていましたけど、静寂の境地のアストラル次元とその先のコーザル(原因、カーラナ)の次元とは別物で、多くの流派の悟りというのはコーザルに至ったことを意味していますけど、実際は、コーザルではまだ悟りではないと思うのです。それなりに修行が進んだのは確かですけど、コーザルではまだ個人的な静寂の境地に達しただけで、その段階でも他人の心が少しは読めたり過去や未来も多少はわかったりしますけど、限定的なわけです。この段階のヨーガ行者とかは山ほどいて、まだ感情を完全い克服できていなくて、瞑想をすることで一時的に感情の段階(アストラル次元)を克服してカーラナの静寂の境地、それは静寂であるのと同時に論理のブッディ(理知的な感覚)が働く段階でもあるのですけど、一時的にブッディが優勢な状態になる、という人が多いように思います。
一時的なものから始まって常にその状態になる、という遷移を経るわけですけど、一時的な状態に留まっている人が割と多いように思われます。
静寂の境地をゴールとしてしまっているのは、おそらくは最初に立てた目標が苦しみからの開放だったということで、最初の目標いかんでゴールがほぼ決まってしまうわけです。もっと先に行くことができたとしてもそこがゴールと思ってしまったらゴールになってしまうわけで、静寂の境地から先へと進まなくなってしまうわけです。
ですけど、実際には静寂の境地というのはベールがまだ被せられている状態で、神様にはまだ一歩届かないわけです。
まず最初は、感情の上に被せられたベールを剥がすことから始まって、感情というのはアストラル次元ですからそこから静寂の境地かつ論理の世界(ブッディが優勢な世界)であるコーザルの世界(カーラナの次元)に移って、カーラナの次元で静寂の境地に至ったとしても、それはベールが被せられている状態なわけです。
スピリチュアルではよく「意識にヴェールが被せられている」みたいなことを言いますけど、それは主に感情と静寂の境地の間にあるヴェールのことではありますけど、実際にはそれは2つあるわけです。
そして、そのどちらにおいても、ヴェールが少しずつ剥がれるときにリラックスが深まります。
感情の渦にまみれている時は緊張していて、瞑想をして眉間に集中することでその感情に被せられているヴェールが少しずつ剥がれて、剥がれるにつれてリラックスが深まり、静寂の度合いが増えてゆくわけです。
そして、静寂がそれなりに深まった後は、静寂の境地の上に被せられているヴェールを少しずつ剥がしていって場所的な意識、それはざっくりいえば場所的な神様と言ってしまってもそう間違いではないのですけど、そのような空間的な意識へと少しずつ変わってゆくわけです。
私の場合、今の段階としては静寂の境地の上のヴェールが少しずつ剥がれてきている段階でまだ場所的な意識を少しずつ垣間見ている状態でまだ完全に剥がれてはいませんけど、概ね、このような段階を辿るように思えます。