本山博先生は元々哲学科で勉強されたようで哲学にお詳しく、たまたま見た書籍にカントとその前後の哲学者の違いが書かれてありました。
ソクラテスやプラトンは高次の認識力が明らかにあり、物事をありのままに見ることである「イデアの直観」のような言説を残している一方で、カントおよびその弟子たちの系統はそのような直観は存在しないという前提に立っており、肉体と結びついている意識だけを考察したために哲学の幅が狭まってしまったというのです。
それは具体的には、本山博先生がいうところの「カラーナの次元」における認知力に関連して説明されています。
(カラーナ次元以上では)「心が、想像や感情、感覚の次元ではなく、真理の直観、事実をありのままにみることを、完全にではないが、できるようになる」。こういうのをプラトンは「イデアの直観」というようにいうわけです。哲学者のカントは、人間は直観できない、人間は感覚でしか物を見ることができないといったけれども、(中略)そういう世界のことを「物自体の世界」というふうに考えた。「本山博著作集8」
これは、現代において全てがそうではないとは思うのですが哲学と聞くと頭でこねくりまわした理屈のお話が真っ先にイメージに浮かぶのはこのようにカント以降の哲学者たちが肉体と結びついた次元で哲学を展開してしまったためだ、と理解できます。
ソクラテスはいわゆる神霊、ダイモンの声を聞くことができましたし、プラトンはソクラテスの弟子ですから基本的には同じことを主張しているわけです。その頃の哲学は神秘主義と言ってもよくスピリチュアルなものだったと思うのですが、近年の哲学を聞いても頭でこねくりまわすだけで説得力に欠けると私などは思うのです。