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ありのままと思うのではなくて認知する

2021-10-12
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想やスピリチュアルで「ありのまま」とか言われていますけどそれには2種類あって、1つは論理的に頭(ヨーガでいうブッディ)で理屈を持って理解することと、もう1つは理屈抜きに直視することです。

これは似ているようでいて実は別で、ブッディだけ、直視だけ、とあるわけです。

それ以前のところとして感情的な感受の段階もありますが、そこから成長してブッディの理屈に至ることで「ありのまま」を体感することと、理屈抜きに直接的に直視して「ありのまま」を感じる・体感することとは違うということです。

感情的なところから始まった場合はブッディに至るまでに時間がかかりますので、最初は「ありのまま」には程遠く、他人の助けが必要かもしれません。一方、直接的に直視するところから始めた場合は答えは自分の中にありますから、まず最初に「ありのまま」を認識した上で、必要があれば問題解決などを頭(ブッディ)で行ったりするわけです。この場合、理屈抜きに直接的に直視した後に必要に応じてブッディの理屈を使うことになるわけですけど、直視というのはコーザルの次元に存在していて、ブッディも同じくコーザルの次元ですけど役割が少し違っていて、直視に関してはコーザルの次元でまず直視をするわけです。

・感情のアストラル次元における感受
・論理(ブッディ)のカーラナ(コーザル、原因)次元における直視(ありのまま)
・プルシャ、あるいはアートマンにおける直視(ありのまま)

感情から始まってブッディに至る場合と、カーラナ次元の直視によってブッディを使う場合とがあるわけです。直視はブッディ以上で発生しますから、ブッディのあるカーラナ次元の直視とプルシャでの直視は違うわけですけど、一応はその2つが「ありのまま」と言って良いと思います。

ブッディの場合は直視を元にはしているもの頭の理屈で考えるわけですけれども、顕在意識がさほど意識していないだけで直視が一応働いてはいて、ですけど、表面的にはブッディが主に働いている場合があるわけです。

そして、プルシャでの直視だけの場合は基本的にブッディは働かなくて、直接的に物事の本質を認識します。

まず感情の段階(アストラル次元)があって、論理・理屈(ブッディ)の段階(コーザル、カーラナ次元、原因)があって、次にプルシャとかアートマンとか言われている段階があるわけですけれども、感情の渦に巻き込まれているところから抜ける時、論理であるカーラナを通り、そして、次にプルシャとかアートマンというところに到達するわけです。まずアストラル次元の感情を抜けてブッディの論理の世界(カーラナの次元)に入るときに理屈で根本原因を見出すわけですけどそのカーラナの段階はまだ理屈としての直視ですので、その段階ではまだ想念の渦に巻き込まれている段階になります。

一方、プルシャあるいはアートマンの段階になりますと想念の渦がかき消されて、意識が「寂静の世界」になり、物事がありのままに目の前に現れる様を直接的に認知します。この時、イメージで言えば「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と表現するが如く、世界のありのままをありありと認知できるようになります。

ブッディの段階ではありのままを「考える」とか「理解する」という段階であるのに対し、プルシャやアートマンの段階ですと「直視する」あるいは「認知する」という段階になるわけです。



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