寂静の境地である非想非々想定(非想非非想処)の完成

2021-10-10 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最近の静寂の境地は以前からそれなりに体験していたように思いますが、それは非想非々想定(非想非非想処)に相当するように思われます。

ここまで來れば、「闇の夜に鳴かぬ烏の声きけば生れぬ先の父ぞ恋しき」といふ道歌の妙味が如々の事実として味得できるのである。(中略)ここは、寂境である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」

少し前からこの状態に入っていて、ですけど、どこか安定していなかったり、思考(ブッディ)が介入してきたりして静寂の境地そのまま、ということはそれほど長くは続かなかったように思います。

最近は安定してきて、完成というのかどうかは分かりませんけど、大体はこの段階のことがわかってきたように思います。

ここにおいても基本となるのは感情のアストラル次元の安定で、まずそれが基礎となった上でカーラナ(コーザル)次元において心の理知的な認識力であるブッディも安定することで静寂の境地になるわけです。

最初は、感情と雑念の安定から始まって、感情のアストラル次元が安定した上で時折カーラナが安定する、という感じでした。その後、次第にカーラナの方も安定してきて、それは少し進んだり戻ったりを繰り返して3歩進んでは2歩下がる、という感じの時も多々ありますけど、そのようにして次第に安定が深まったように思います。

この境地はブッダが修行した時に「これは悟りではない」と判断してその師匠のところを去ったという割と有名な境地で、それ故に、仏教の流派によってはこの境地の習得は必須ではなく任意としているところもあるようですけど、個人的に思うのは、確かに理屈としてはそういうのも成り立つ気も致しますけど、基本的にはここを通らずしてどこを通るつもりなのでしょう? と思ってしまいますが、どうなのでしょうか。まだ悟っていない私が言うのもなんですけど、ブッダのエピソードはあくまでも後世の判断でしかなくて、一部の流派はこの境地を軽く身過ぎているように私なんかには思えますけど、どうなのでしょうか。

「色」というのが五感などの現実に即した世界、いわゆるアストラル世界に相当して感情など五感にまつわる諸感情や感覚の世界で、まずそれを超えたことに加えて「無色」と言うのはざっくり言えば心の世界ということですけど整理されていない雑念に加えて整理された考えであるところのブッディ(理知的な思考)をも含んでいて、その両方を超えるのが非想非々想なわけです。

仏教の流派によっては心の世界(主にブッディ)をどうにかしなくても悟れる、と言っていたりしますけど、確かに、悟った後であれば理屈で言えば心にしても何にしても全て超越していますので悟った後の世界から見ればそのように解釈することも可能かとは思いますけど、悟っていない人が悟りに至るために非想非々想を通らずして悟れるかというと、そこはちょっとよくわからないですね。

悟りの方から見て心が動いていても静止していても大差ない、というのはその通りですけど、修行の階梯としては心の静止を経て次の段階・次元へと進む、というのが王道のように思えます。悟りの境地の説明と修行方法とをごっちゃにしてしまうとよくわからないことになってしまうように思います。

悟りの境地からすれば、繰り返しになりますが、心が静止していようが、心が動いていようが、感情があろうが、感情を抑えていようが、全て変わりがないわけです。それがありのままの境地ということでもあって、自分がどのような感情や心の動きをしたとしてもそれを超越した意識があるのが悟りの状態なわけです。

ですけど、悟りに至るためには段階的に「静止」を経る必要があって、まず最初はアストラル次元の感情を抑えて静止さる、というところから始まり、次はブッディ(理知的な思考)を抑えて静止させる、というところを経るわけです。

それは修行方法であって、一部の流派が批判しているように「心を静止して一体どうするというのか」みたいなお話は、主に、悟りの状態に対しての批判あるいは修行方法に対する批判であって、悟りの状態に関してはなんら異論がなくてその通りで、心を静止しようがしまいが悟りの境地には何の影響もないというのはそれはそうなのですけど、修行方法に関してはそれぞれの流派のやり方があるのだから口を出さずに放っておけばいいと思います。

それはさておき、この非想非々想に浸っていると何やら曇りが時々入ってきて眠らせたりする、というお話があって、それが滅尽定(めつじんじょう)という状態のようですけど、個人的に思うのは、確かにそのようなぼやけた状態はあるにはあるものの、明らかに何か気持ちの悪い感じがするので、書物が危険性を指摘するかのようにその状態にずっと落ち込む、というのはないのではないか・・・ という気も致します。

そして、その後に、曇りが完全に晴れると金剛定という状態になるということですけど、私はそれに至った自覚はまだないのでまだでしょうかね。どうでしょうか。