瞑想に理屈はあまりいらない

2021-10-16 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

語弊があるかもしれませんが、瞑想は割と力技的なところがあります。

精神分析とかスピリチュアルでは色々と理屈を考えて頭の中で解決しようとしますけど、瞑想はもっとストレートに力技で全てを解決しようとします。スピリチュアルでいうところの「直感型」に近いですので、女の人はごちゃごちゃと考えるよりもストレートにすんなりと腑に落ちるお話かもしれません。

こういうのは、きっと男であっても女であっても対して変わらなくてその人の性質によるところが大きくて、理屈っぽい人は割と頭の中でごちゃごちゃと考えてしまって(一応の)ゴールに辿り着かないような気が致します。

一応のゴールが静寂の境地としていいとは思いますけど、そこですら、頭の中でごちゃごちゃと考えてしまうとゴールに達しないわけです。

それよりも、スピリチュアルであれば女の人がきっと得意なように直接的にすんなりと入ればそれで終了なわけで、瞑想的に言えば力技で直接的にゴールに達すればそれで終わりなわけです。

それを、理屈でゴニョゴニョ言って傷かないようにだとか理解するようにだとか、ごちゃごちゃ言ったところで、ゴールにはなかなか辿り着かないわけです。そうは言っても、階段を一歩一歩進んでいるようなものですので少しづつ近づいているにいるとは思いますが、もっと直接的な方法があるわけです。

瞑想の力技にしてもスピリチュアルで直感に導かれる方法にしても、どちらも言葉を超えている、というところに共通点があります。

言葉の段階、理屈の段階で色々と考えて理解して手放そうとしたり色々試みたりしても、それは所詮は理屈の段階でしかないわけです。

こうして、何か物事を書いているときは、そのような理屈の段階に降りてきて書いているわけで、実際に静寂の境地に達してその状態で生きる場合は、このような理屈とは離れていて、理屈の言葉は頭の中に出てこないわけです。理屈の言葉が出てきたらそれは静寂の境地ではないわけで、静寂の境地だとしたらそこに言葉はなくて、直接的な直視とでも言える状態だけが存在しているわけです。あるがまま、ということもできます。

そのような境地に直接的に踏み込めばそれでゴールなのであって、そのゴールに一瞬でも踏み入ることができればいいですけど、踏み入ることができなかったり、あるいは、長く居留まることができなければそれはそれでまだ修行が足りないわけです。

理屈も一応は役に立って、ゴールへの道標にはなりますけど、ある程度進んだらゴールが見えて、あとは割と力技でいい気が致します。瞑想的に言えば力技で、スピリチュアル的に言えば直接的に踏み込むとか色々な言い方がありますけど、表現が違うだけでどれも似たようなお話のように思います。