静寂の境地に達したら他人へ奉仕する

2021-10-24 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

静寂の境地の次はどうしたら良いだろう、というところで、ふと見つけたのが「他人への奉仕」でした。

これは、以前にも読んではいたのですけど割とスルーしていたことで、他人への奉仕それ自体は昔からヨーガでは「カルマヨガ」として説明されていて、「見返りを求めずに奉仕すること」であるわけですけど、その意味として、静寂の境地をベースとすれば次の境地として神が宿る、ということのようです。

これは、道徳的な教え、あるいはヨーガの一部の流派においては「奉仕活動・ボランティア(無料での活動)」を意味してしまっていますけど、本来の意味としては、静寂の境地からその次の神への段階へと進む時のことを表現しているようです。少なくとも、そのように解釈している団体もあるようです。

ヨガの行をして、心も体も静まり、全体に調和のとれた安定した状態になったときは次に何をするかという問題です。何もしないで、ただそのままでいるだけでは進歩はありません。「輪廻転生の秘密(本山博著)」

この時、本山博先生が説明するには、自分という殻がまだ残っている状態だから、より大きなもの、それを神と呼ぶかもしれないし絶対者あるいはアートマンと呼ぶかもしれないが、それに「託す」ことで、大きなところから力が加わって、自分の殻が壊れて行く、と説明しています。これは親鸞のいう「他力」と同じものであるとも説明されていて、私もよく理解できます。

私はきっと次はこの段階へと進む必要があるのでしょう。無念夢想になって静寂の境地で心が休まったとしてもそれは悟りではなく、神様との間にまだ壁があって、それは個という殻がまだ残っているということでもありますけど、その殻を破ってゆく、いわば個を否定してゆく必要があって、殻が破れた時により大きなものと一体になっている筈なわけです。

無念夢想になったら(中略)全部自分を神様というか、絶対の方に向けて捨て切るわけです。ただ任しさえすればいいのです。そうすると、ここで絶対とのつながりができる。(中略)神様に任せる、神様の方に向くということは、取りも直さず”信仰”ということなのです。「輪廻転生の秘密(本山博著)」

信仰というと、単に暗黙に信じること、みたいなお話がありますけど、本当の信仰はそういうことではないわけです。

そして、具体的に、このように自分の殻を破っていく方法として本山博先生は独自の言葉で「超作」ということをするように勧めておりますが、これは造語で、具体的にはヨーガでいうところのカルマ・ヨーガと同じことで、「結果を求めずに本務を行う」ということなわけです。