(同テーマ&時系列の次記事)歓喜から静寂へと至る瞑想

無念無想と信仰

2021-10-28
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

無念無想、いわゆる静寂の境地になる前の信仰はそれほど必要ないように思いますが、静寂の境地になると信仰が重要になるように思います。

静寂の境地に至る以前の場合は感情や願望(煩悩)が主となっておりますから、その状態で祈ったり信仰したりしても現世利益の方向にしか向かないわけです。一方、静寂の境地に達した後であれば信仰が神様の方へとスーッと通じるように思います。しかしながら、私の段階では、まだ、神様と自分自身の間には少し距離があるように思います。

神様と言っていても色々あって、人格神としての神様と「全体」としての神がいるわけで、ここで言っているのは人格神の方ではなくて「全体」としての神様、あるいは、自分の御本尊としての神様の方を言っているわけです。

神社とかお寺、あるいは古い歴史を持つ地域の山などには力を持った御本尊あるいは人格神が祀られていて、それはそれぞれですけれども、自分とゆかりのある御本尊あるいは「全体」に対しての信仰が基本になってくるわけです。

一方、よくわからない人格神、自分と繋がりのない神社の神様、あるいは、よくわからない宗教の教祖などを拝む必要は基本的にはないわけです。

確かに、世界は全てが「全体」としての神様の一部ではありますから理屈で言えばそのようなよくわからない存在であっても神様の一部ということもできますけど、そのように思えるのは悟った後のお話であって、悟る以前であれば、そのようなよくわかない存在をお祀りする必要はないわけです。

信仰というのは、静寂の境地に達する以前であればそれは逆にその信仰そのものが煩悩となって、静寂の境地に達する妨げになることすらあるように私には思えます。

ですから、静寂の境地に達する前は技術的な面にフォーカスして、例えばビジネスの社会でも話題になってきているマインドフルネスのように信仰とを切り離して瞑想をするのもある程度は有効で、しかしながら、静寂の境地に達した後は信仰が重要のように思えるのです。

静寂の境地に達する前の信仰というものはよくわからない変な教祖様を信仰してしまうことがあり、そのように間違ってしまうと静寂の境地に辿り着けないこともあったりしますので注意が必要です。それよりは、時間はかかるかもしれませんけど静寂の境地に達する前は信仰なしにスピリチュアルをすることもある程度は有効かもしれませんけど、それでも、神様などを受け入れる姿勢は最初からあった方が良いと思います。

人は、立てた目標にまでは達するもので、目標がビジネスの効率アップですとかストレス解消であればその目標を達成したら満足してしまうのが普通なわけです。

一方、立てた目標が静寂の境地であればそれがゴールになります。

そして、目標が神様へと到達することであれば静寂の境地にも留まらない、と言うことになる筈なのです。

そして、静寂の境地から先は信仰が重要になってくるように思います。

ここに至ると神様というものがどのようなものなのか、全体としてはおぼろげながら、それでいて以前よりは割とはっきりと理解できるようになりますので、世間で言われているような変な神様や教祖様を信仰する、という方向には行きませんし、信仰、あるいは祈りというものの本質がここに来ると見えてきますから、これが正しい道であると理解できるようになるわけです。



(同テーマ&時系列の次記事)歓喜から静寂へと至る瞑想