歓喜から静寂へと至る瞑想

2021-10-27 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想で、最初は歓喜が沸き起こります。それは感情としての瞑想で、いわゆる集中瞑想(サマタ瞑想、シャマタ瞑想)によって対象と(サマーディ、三昧にて)一致した時にそれは起こります。

段階としては、ヨーガや神智学、あるいはスピリチュアル等で言われているような段階を経てゆきます。

・肉体
・アストラル体(感情を司る)
・コーザル体(カーラナ、原因の体)(理性を司る)
・プルシャ、あるいはアートマン(あるいはいわゆる神、創造神)

このうち、アストラル体の感情面で対象に一致してサマーディの状態になると歓喜が湧き起こります。
次に、コーザル体(カーラナ)にてサマーディの状態になると静寂の境地になります。

アストラル体では割と対象がはっきりしているのですが、カーラナでは対象はぼんやりとしていてはっきりしません。ですから、アストラル体では対象があって集中があってそれでサマーディが起こり、歓喜が沸き起こる、となるのに対してカーラナでは対象がはっきりしませんので、何か集中の対象があるわけでもないので対象としてはぼんやりと、しかしながら意識は明確にはっきりと明晰な覚醒の意識を保ったまま静寂の境地になるわけです。(似てはいますが全く違う状態として、意識が単にぼやっとしている時はサマーディではないわけです。)

カーラナのサマーディにおいては対象がどこを向いているのか方向としてはよくわからない、と言えばそうなのですけど、そのようにいうよりは、全方向、と表現した方が実態に近くて、アストラルの次元では方向性と対象があるのに対して、カーラナでは方向と対象としてのベクトルはよくわからなくて全方向、になるわけですけれども、カーラナのサマーディにおいては意識ははっきりとしていて、理知的な明確な思考が素早く働く状態なわけです。そして、思考がはっきりと素早く働くベースになっているのが静寂の境地なわけで、静寂の境地においては何も思考できないというわけではなくて思考しようとすればいくらでもすることができるし思考しないと意図すれば思考せずに静寂の境地に居続けられるわけです。静寂の境地というのは雑念に対して主に働きかけていて、雑念が静寂である一方で、明確な思考は意図を元にいくらでも働かせることができるわけです。

瞑想を始めてから最初は、集中瞑想から初めます。それが基本で、そのうち集中が臨界に達すると歓喜が湧き起こります。

ヨーガでサマーディというと1つのように捉えられていますけど実際にはアストラル次元のサマーディとカーラナ次元のサマーディとがそれぞれあって、アストラル次元のサマーディでは歓喜が沸き起こって、カーラナ次元のサマーディでは静寂の境地になるということです。

それは割と段階のようなもので、世間の瞑想用語に当てはめてみるとアストラル次元のサマーディは止(シャマタ、あるいはシネーの境地)で、カーラナ次元のサマーディは観(ヴィパッサナー、観察瞑想)なわけです。

これは段階的に起こるもので、瞑想を続けてゆけばそうなります。

補足として、似たようなもので「体の皮膚の感覚を観察する瞑想」とかありますけど、それはこのお話とはあまり関係がなくて、混乱の元ですので、切り離して考える方がいいと思います。皮膚の感覚というのは五感であり感覚・感情面と結びついていますから、それは基本としてはアストラル次元の瞑想ではあるのですけどそれなりに瞑想が進めば同じ瞑想がカーラナ次元の瞑想にもなったりしますけど、そうは言っても混乱がありますので、あまりこのお話とごっちゃにしない方がいいと思います。



(前の記事)無念無想と信仰