顕教は想念と想念の間の何も考えていない時間を伸ばそうと修行します。
密教は想念をイメージ等で変異させようとします。
このどちらも、想念を煩悩として捉え、それから離れたり変化させたりすることを目指しているわけですが、チベット仏教の特にゾクチェンの教えだったり、あるいはインドのヴェーダンタの教えにおいては心とその動きの間に善悪もなく、単なる心の働きだと教えています。
実際、その教えは単なる教えだけではなくてサマーディの状態がどのようなものなのかという具体的な目標あるいは道標の捉え方にも違いが出ています。
心の動きというものは単なる働きですから、それに善悪はない、というところが理解ですけど、実際には多くの人はその単なる働きである想念あるいは煩悩によって悩まされていたりするわけです。
静寂の境地が心の土台で、湧き上がる想念は単なるエネルギーの働きですから、そこに善悪はないわけです。
寂静な境地は何か達成すべき善で、思考の波は何か捨て去るべき悪だと考えたならば、やはり受容と拒絶という二元論にとらわれている事になる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
それ故に、サマーディ状態においては思考を捨て去ってしまうのではなく思考があってもなくても覚醒を保てば良いわけです。
この辺りには誤解もあって、サマーディというのが単なる集中の静寂の境地だと思われてしまっている面もあると思いますけど、サマーディの本質は覚醒の境地であって、静寂の境地はその土台であるわけです。