サマーディにおける想念の観察と動作の観察の割合の変化

2021-11-07 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

以前は、日常生活におけるサマーディが想念の観察か動作の観察か、どちらか一方に比重が偏る感じでした。想念の観察を重視しているときは想念80:動作20くらいの観察になり、逆に、動作の観察を重視するときは想念20:動作80くらいの観察になっていました。それが、ここ最近は想念と動作の両方がそれなりに同時に観察できるようになってきたように思います。

これは日常生活でのお話ですけど、一応は、座った時の瞑想でもこの割合が効いてきます。ですけど座った瞑想の場合ばこの種のお話はあまり問題にならなくて、座った瞑想状態ではそもそも五感の入力が低下していますし、目を開けた瞑想であれば視覚の入力はありますけど目を瞑った瞑想でもすれば心の面が優位に観察されて五感の観察の割合がどうしても減少します。

しかしながら、普段の生活においては五感が普通に働きますので、その状態における観察では、五感に集中して五感優位で観察する時と、心の動きが優位で観察する時とがあって、今まではどちらか片方に偏っている状況でした。基本的に心というものは一つのことしか意識できなくて、心を観察するか、五感を観察するのか、どちらか一方が優勢だったように思います。

しかし、ここにきて、この割合が変化してきました。

今は、意識的にこの割合を変えることができて、想念50:動作50、などが可能になりました。
そうは言いましても完全にその割合というわけでもなくて時によって違うわけですけれども、両方の観察が継続するようになったように思います。

これは単なる割合ということ以上の意味合いがあるように思えて、それは、想念や動作よりも更に一歩上の階層で自分自身を観察(ヴィパッサナー)できるようになってきたのかな、と思っております。

表現として「同じ割合」としてしまうと、何か語弊があるような気もしております。

ヨーガでは肉体(粗大な体、ストゥーラ・シャリーラ)、微細な体(スークシュマ・シャリーラ)、原因体(カーラナ・シャリーラ)、アートマン(あるいはプルシャ)という体の階層がありますけど、サマーディがまだそれほどではない場合は五感の観察はできるものマインドの観察はまだしにくい状態にあって、次第にサマーディが深まってアートマンのサマーディに近づけば近づくほどマインドの観察もしやすくなるのかな、と解釈しています。

であれば、体感的には「同じ割合」ということにもなりますけど、五感もマインドもどちらも下の階層になって観察(ヴィパッサナー)できるようになればどちらも観察の感覚的には同じ割合、ということになるのかな、と解釈しています。

こうなるにつれて観察のしやすさも断然変わってきて、努力というものがどんどんと不要になってきて、日常生活と観察(ヴィパッサナー、サマーディ)が次第に融合されていくのを感じます。