意識を集中して無意識が観察する瞑想

2021-12-08
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よくある誤解で「瞑想とは観察することだ。だから集中は瞑想ではない」というお話がありますけど、実際のところ観察だけでなく集中も瞑想の重要な一部なわけです。

日本語に誤解があるようにも思いますが観察という言葉で言い表しているのは観察が「起こる」と言うことであって意識で観察することではないわけです。観察することを期待しても良いですけど瞑想状態における観察そのものは行動にはならなくて、行動としては集中することしかできないわけです。行動として観察しようとしてもそれは集中でしかないわけで、言葉ではいかようにも表現できてしまいますからその行動としての集中も観察と言うこともできてしまいますけど、瞑想の表現としては誤解があるように思います。

観察ということもできますけど、行動としては結局は集中でしかないわけです。それは意識での観察、あるいは、顕在意識での観察と言い換えることもできて、顕在意識の観察というのは集中とも言えるわけです。その、集中としての瞑想と、それと同時に、無意識の観察、というものも同時に瞑想中に状態として存在しています。

顕在意識の観察は集中と言い換えることができますけど、無意識の観察は集中と言い換えることができません。そこは言葉と表現ですから言おうと思えば無意識の観察であっても集中と言えなくもないですけど適切な表現ではないように思えますから、無意識の観察は集中とは言い換えできない、という前提に立った上で無意識の観察というものが存在することをまずは受け入れることが必要に思えます。

最初はこの無意識の観察というものは本当に弱い力しか持っていなくて、一瞬それが現れてはすぐに消えて、というくらいの働きしかありませんけど、その働きは次第に強くなってきて、日常生活にまでその状態が広がってゆきます。それはいわゆるサマーディ状態というもので、サマーディと言っても色々な段階がありますけど、観察が瞑想中に不意に短時間起こるようなサマーディから、日常生活にまで続くサマーディとまであるわけです。そのサマーディの働きが「無意識の観察」で、その一方、顕在意識としては集中が依然として存在するわけです。

瞑想では顕在意識を何かに集中させた上で、無意識が観察状態になることを待ちます。あるいは、意図しても良いですけど、基本的には無意識は顕在意識のコントロール下にありませんから顕在意識としては待つことしかできないわけです。

言葉それ自体を言うと無意識とは意識していない部分なのだからその無意識で観察などできるのだろうかと論理的には考えてしまいますけどそれは言葉のあやと言うもので、瞑想をするにつれて元々無意識だった部分が次第に顕在意識に組み込まれていって、そうは言いましても顕在意識の部分と無意識に近い部分とはグラデーションのように認識の強さが違っていいますので、顕在意識の強い部分が意図して集中して、一方で、無意識に近い顕在意識で観察をする、と言うこともできます。

それでは全部顕在意識なのではないかと言ってくる人もいるでしょうが、そこは心の観察と言語の機微というもので、どちらにせよ言葉としては分けて表現するしかありませんのでこうして分割して表現してはいますけど実際にはグラデーションのようになっていて、無意識と言いつつも瞑想状態が進んでくると次第に表層に上がってきて顕在意識に近いものになってくるわけです。

そういう意味では両方とも集中のような状態に次第になってくるわけですけれどもそうして両方とも集中と言ってしまうと何が何だかわからなくなってしまいますしやはりそれでもグラデーションのような濃淡がありますので、やはり顕在意識としては集中で無意識が観察、と言った方が本来の状態に近いように思います。

次第に集中が不要になってきて無意識側の観察だけで済むようになってはきますけどそれでも集中というものはかなりずっと必要になってきて、集中とは言っても力を入れることではなくて意識を向けるという程度のことではありますけど、瞑想で集中が不要になるということは基本的にはないと思います。

ただ、サマーディ状態になれば集中というものが忘れられて(元々無意識だった)観察の方が優勢になりますからその状態では集中がない、という事もできますけど、それでも、無意識の働きが観察をしている状態を広義での緩やかな集中と言えなくもありませんし、それはただ単に「(広範囲を)認識している状態」という事もできますけど、そのように広範囲を認識している状態であっても無意識の側で意図して「(広範囲を)認識している状態」から何処か一点に集中する状態に切り替える事もできますし、そうであっても基本的にはサマーディ状態は失われなくてその一点をよりはっきりと認識する状態になったという違いだけですので一点集中という事もでき、そうなりますと集中いうものと観察とが同居するようになりますので、言いようによっては広範囲に対する集中と表現できなくもありません。

そうは言いましても、そうなると何が言いたいのかわからなくなりますので、普通に表現するときは顕在意識の集中と無意識の観察、あるいは、もっと簡略化して単に集中と観察、と言ったりするわけです。瞑想の基礎は「集中と観察」なわけですけど、実際のところ、その違いはあるようでいて時にサマーディ状態では違いはそれほどなかったりするわけです。