知る必要があるのかどうかをまず考える

2021-12-25 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

何だろう、と思ってもすぐに「知りたい」とは思わないことがスピリチュアル的には重要なわけですけれども、世の中のマーケットや他人から何かを奪いたい人はこの辺りの仕組みをうまく活用していて、「何だろう」みたいな不思議から始まって他人に消費を自発的にさせたり、あるいは、他人から何かを奪うようなことをあたかも自発的にさせたりするのです。それは操作とも言えますけど割と最近はこの種の手法は洗練されていて本人は自発的と思っていても実際にはマーケターの計画に従って消費させられていることがかなりあるわけです。

あるいは、他人から何かを奪う際に執拗に何かを主張して「〜はすごいだろう」ということに対して同意させるということを行います。その種の「理解の同意」に関してはなかなか否定することが難しくて、特に田舎や家族あるいは親戚あるいは学校の付き合いのような閉ざされた社会においては付き合いでその種の「同意」が半ば強制されることがあり、その同意さえ取れてしまえば「それなら、〜したいだろう」というところまで階段が用意されているわけです。そこまで来れば他人から消費を引き出したり他人から何かを奪いたい人にとっては好都合で、あとは「〜したい」という他人の欲望に何度も何度も働きかけていけば他人の中にその感情が高まって願望になりますので、そうなったら他人が思う通りに動くわけです。そうして他人のものや財産を手に入れることができる、という構図になっています。

これは短期的には販売員の手法としても使われているわけですけれども、直接的には広告という形あるいは中長期的にはマーケッティングという形でこの社会に浸透しています。

それは「何だろう」という疑問から始まって「〜知りたい」というところまで来ると願望になり、その後に待っているのは「消費行動」なわけです。

身近なところでは何かを買わせたい近所のズル賢い商売人だとか、他人から奪いたいだけの五月蝿い家族の一員、あるいは親戚などがこの種の行動を取ったりします。その種の人たちはまず「〜何だろう」というところから始めて「〜したいだろう?」というところまで執拗に話しかけてきて同意を取ります。後は上記の通り、最後の「消費」行動あるいは何かを「渡す」まで、それはつまりズル賢い人が奪う、ということですけど、それをターゲットがあたかも自発的に行うまでそのマーケティングを執拗に繰り返すわけです。

その最初が「知りたい」という点であり、「何だろう」と思っても「知りたい」と思わないことが現代においては重要なわけです。

もちろん、知る必要があることもありますから、そこは選択的に行うということです。知る必要がないことを、他人が「これ何だと思う?」とか「凄いだろ」とか言ってきたとしても、それを知りたいと思うかどうかは自分の判断次第ということです。

まず最初に「知るべきかどうか」「知る必要があるのかどうか」を判断する必要があるわけです。