象と盲目の人、の譬え話

2021-12-26 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

「盲人と象」あるいは「群盲象を評す」というインドで有名な昔話があります。このお話は仏教経由で日本にも広まり、多くの人がことあるごとに引き合いに出しています。

簡単に言いますと、何人かの盲人が象を触って「象とはこういうものだ」と口々に言うのですがそれは象の一部分しか表しておらず実際の象の姿とは異なる、と言うお話です。部分を持ってしてそれがあたかも全体であるかのように語る盲人は全体像が見えていない、というお話で、それを引き合いに出して、特に宗教者が自分達の教義を説明する時に使うことがよくあるわけです。

私自身もこのお話を30年以上前から度々色々なところで色々なニュアンスで聞く機会があったのですが、最初こそ「ふむふむ」と単純に納得していたのですが、次第に、言う人によって様々なニュアンスがあることに気がつきました。

大きく分けるとそれは2つで、

・(該当宗教の)権威付けのための引き合いにしている場合
・部分であっても真理であるから小さな真理を積み重ねれば全体としての真理に至ると言う例え

前者の場合、該当宗教団体の教祖などが有難い教えを享受するから有り難く受け取るべし、と言う形で表現されることが多くて、それを聞く人は単純に「そのような真理を聞くことができて私はなんて有難いのでしょう」と感謝を持って聞くことになります。その感謝はどちらかというと宗教的な感謝で、やがては盲目的な信仰に繋がってゆくものです。やがてその考え方はエスカレートして、該当宗教の教えは一般庶民には理解できない崇高なものであるという権威付けが強化され、盲人である一般庶民の理解と崇高な教えを受けた教団の人々の理解の間に断絶があって、教団員は象の全体を知っているが一般庶民は盲人のように部分だけを見て全体の真理を語っている、というように解釈されます。

このように、前者の方には断絶があり、宗教団体や教義を権威付けしようとする人たちがよく用います。

後者は部分であったとしてもそれは真理の一部を言い表しているのでそのような探求を続ければやがては真理の全体に至る、というお話です。

実際には、これら2つは重なっていて、完全にどちらか一方、というお話にはならないのですけど、場合によってどちらに重きを置いているのか、あるいは、途中まで片方に重きを置いていたかと思ったら急に話をすり替えてもう片方のお話になっている、と言う時もありますので注意が必要です。

前者には断絶があり、後者には断絶がない、と言うこともでき、これらの2分類から更に分化することもできます。

1.断絶あり → 神は不可知とする考え方
2.断絶あり → 神は認知可能だが難しい、とする考え方
3.断絶なし → 神・真理は緩やかに段階的に認識する、と言う考え方
4.断絶なし → 神は存在しない、自らの認知が全て、という考え方

1.断絶あり&神は不可知、の場合は知ることができないのですから信仰だけがそこにあります。
2.断絶あり&神の認知は難しい、とする場合は宗教団体の教祖など選ばれた人、あるいは修行をすることで神の認知をする、というお話になったりします。それにより宗教団体の権威が強化されたりします。一応は万人に神の認知の道は開かれていますけど断絶があって難しい、という考え方です。
3.断絶なし&緩やかな認識、の場合は万人に神の認知が開かれていて、ちょっとの認識を繰り返すことでやがては心理に至る、と言う考え方です。この場合、宗教団体の権威付けはしにくくて、神の経験は個人的なものになります。これが、この象の譬え話の解釈として一番適当に思います。
4.断絶なし&神は存在しない、と言うのは無神論者のお話ですからここでは話をしなくていいと思います。

この種の譬え話を聞くときは注意が必要で、話し手のニュアンスによっていかようにでも変わってしまうものです。

そもそも、私の理解では、この譬え話は真理の全体を説明するものではなくて、インドのヴェーダンタの説明において「全体」としてのアートマンとそれを認知する際の人間の限られた五感を説明するためのもので、広く一般的に理解されているような真理の全体というお話ではなかったように思うのです。

とは言いましてもこれは古い譬え話ですから本当のところで最初にどのような意味だったのかを確かめることはできませんけど、元々の出所を見ると、どうも、ヴェーダンタのアートマンの説明が世間に広まって一般的な真理のお話として広まった、と解釈するのが適当に思います。

アートマンのお話であれば、それはただ単に認知のお話をしているだけですので権威とかは全く関係がなくて、単に認知できるかどうかのお話です。それであれば普通に理解できるのですけど、象のお話は往々にして権威と結びつきやすく、聞くときに注意が必要に思います。