感情はアストラルに対応し、論理はコーザル(カーラナ、原因)に対応します。
そして、どの段階を扱うかによってスピリチュアルの形も変わってきます。
これはどれが正しくてどれが間違っているかということではなく、それぞれの段階のうちどれを重視するかという違いでしかありません。とは言いましても、一応の段階を踏むことになりますので、一応はどれも同じという建前にはなってはいますけど、実際は階梯というものは基本的に存在しております。
まず、物理的なところから始まります。肉体は全ての基礎ですから、スピリチュアルな人であっても肉体を疎かにはできないわけです。例えば肉体の健康を重視しているヨーガのアーサナ(姿勢、体操)があります。
その後、感情としてアストラルを扱います。カウンセリングなどが良い例で、カウンセリングを行うスピリチュアルはアストラルを扱っている、ということになります。アストラルはそのままアストラルと言ったり感情(体)と言ったりしますけど、感情を克服して次の段階へと向かうようなスピリチュアルがこの段階になります。
感情をコントロールできない状態から始まり、感情をコントロールすることを学ぶわけです。それと同時に豊かな感情を学んだりします。
同じヨーガでも団体によって重点を置いている段階が異なっていて、感情的な克服を目指している流派もあったりします。例えばヨーガ的なカウンセリングを行なったり教えている団体がこの段階で、感情であるアストラルを扱っているわけです。その段階では往々にしてヨーガの「アヒムサ(傷つけない)」を基本にしており、感情のコントロールの目的が「自分が傷つかないこと」及び「感情でお互いに傷つけ合わないこと」になっていたりしますから、自分の感情をコントロールしたり、お互いに相手を傷つけないための表現手法を学んだり、カウンセリングで相手の感情をコントロールしたり、ということを学んでゆくわけです。
アストラルの段階にいて感情に対峙している人々にとっては感情は大ごとで、自分が傷付けられたくないから自分の感情をコントロールしようとしますし、団体においては自分が傷付けられたくないから相手に同じように気をつけるように教育して、なおかつ表現方法に関して「同意」を取ろうとしているような団体も中にはあるようにも思うのです。そのように、同じような手法で表現してお互いに傷つけ合わない同意が取れたらその同意が取れた人たちの間でコミュニティができますけど、それはアストラルの段階の人が集まっている以上、結局はお互いが気をつけるしかなく、ある程度の注意と「同意」に基づいて存在しているコミュニティは感情のもつれがよく発生し、完全に感情を克服し得ないのがアストラルの段階にいる人および団体の特徴であると言えます。
アストラルの段階では「同意」や「ルール」が数多く作られ、いわゆるそこらの宗教団体も大抵はこの段階です。ですから団体の中での同意やルールにこだわり、同意が取れていないよその人に対しては拒否をするわけです。その拒否の理由としてはヨーガ・スートラや仏教で言われているように「不徳の人は無視しましょう」みたいなところが根拠として使われるのですけど、そのようにして、アストラルの段階では他者とあまり関わることなく個別の道をゆくことになります。これは時に悪い習慣のように語られることもありますけどそれほど悪いことではなくて、必須ではありませんけど、ある程度の段階に至るまでは自分と自分を理解してくれる人というそれなりに小さなグループで守られるということも時に必要だと思っております。羊が守られる段階ですね。
次の段階は論理で、コーザル(カーラナ、原因)に相当します。この段階においては物事の根源にある論理、その原因を直接的に認識するようになります。この段階になると感情的なお話はなくなってきて、論理が感情を圧倒するようになります。
コーザルに達した人にとっては感情を扱っているアストラルのヨーガは周りくどくて、話が3周回ってもなかなか真実に到達しない、と感じてしまって合わないのが実情です。そのくらい、この段階の認識は異なってきます。
コーザルの認識はとても直接的で、コーザルの認識からするとアストラルの段階の人たちがやっていることはとてつもなく回りくどくて、例えば自分の感情を克服したり相手を傷つけないように表現に気をつけるだとか色々としているのを見ては遠回り過ぎると感じてその遅さに苛ついてしまうこともあったりします。
コーザルの認識に至った人は時に感情というものをあまり考慮しませんから、まだアストラルの段階にいる人たちにとってはコーザルの段階の人は時にちょっと怖く写ったりもするようです。とは言いましても普通に教養がある人であればそんなことはないとは思います。
これらは、いくつかある段階のうちの感情面と理性面のスピリチュアルとして理解されます。