論理のスピリチュアルから合一のスピリチュアルへ

2022-01-03 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

論理であるカーラナ(コーザル、原因)の段階はスピリチュアルの1つの重要な段階ですが、論理は論理でしかなくて、それはまだ個というものに囚われています。論理というものは物理的な次元に囚われていて、論理は時空を越えるというところには至らないわけです。

ヨーガ系の聖典であるヨーガ・スートラにおいては「合一」の段階をサマーディ(三昧)としておりますが、実際にはその合一はアストラルの感情の次元とカーラナ(コーザル、原因)の次元とプルシャ(神霊)の次元それぞれで起こります

アストラルの感情の次元で合一が起これば感情的な歓喜が沸き上がって高揚します。
一方、カーラナの論理の次元で合一が起これば理解したことによる歓喜が沸き起こります。

そして、プルシャ(神霊)と合一した時は「自分」というものが消え去るように思うのです。

これは、私自身の感覚では以下のように理解されます。

・アストラルの感情面:マニプラのクンダリーニによる歓喜及びそれによる感情の克服
・カーラナの論理面:ヴィシュッダに至ったクンダリーニに伴う真理の理解の始まり、及び、クンダリーニがサハスララに至ることによる更なる理解
・プルシャ:アナハタから入ってきた6次元のハイヤーセルフがプルシャ相当であり、アナハタとの融合がプルシャの合一の始まり。その後、ハイヤーセルフ(プルシャ)がアジナにまで満ちて、クンダリーニとハイヤーセルフがアジナで溶け合うことにより少しづつ「自分」が消え去る。

自分が消え去る感覚は時折起こっているわけですけれども、どうやら、そのトリガーとなるのは自分の中に元々あったクンダリーニのエネルギーとアナハタから始まったハイヤーセルフ(プルシャ)のエネルギーがアジナにおいて少しづつ融合するにつれて自分の意識が消え去るように思います。

そして、それは自分の顕在意識の一時的な忘却ではあるのですけど、おそらく、それにより新たなる次元の扉が開きそうな予感もしております。

それは見方を変えれば三浦関造氏による神智学的な解釈に基づいても同様と解釈できて、一旦は上がったクンダリーニが一旦アナハタに戻ってから再度上がる、という解釈もできるのですけど、私の見たところそれらは同じエネルギーではなくて、あくまでも元からあってムーラダーラから上がるのはクンダリーニで、背中の方からアナハタに繋がって身体中に広がるのはハイヤーセルフ(プルシャ)のエネルギーで、似てはいるものの別物かな、と思っております。別物というのはエネルギー的にも違うものとして感じられますし、おそらくは次元を異にしているのかな、という気も致します。