感謝や愛に理由や対象や行為はいらない

2022-01-12 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

特定の対象、恋人だとか仏像だとかキリスト像だとか礼拝所だとか、そのような対象なしに、ただ単純に感謝をすること。「する」という行為すらなしにただ単に「感謝」の状態にあること。そうなれば、行為なしの感謝、対象なしの感謝、理由なしの感謝の状態になります。

それはとても単純なことですけれども、それは状態としてはそれで正しいわけですけれども、手法としてはそのまま直接的にそうなろうとしてもなかなか難しいわけです。

それは「状態」でありますから、その状態になるための「手法」はまた別にあるわけです。

この状態だけを見て手法もそれ自体だけでいいと思ってしまったり、或いは誰かから「その状態になりなさい」などと言われて勘違いをしてしまうと彷徨い歩いてしまったり、なかなか答えを見つけられないかもしれません。

手法としては単純で、とは言いましても手法は色々とあって、瞑想の場合には、普通に瞑想をしたりすれば良いわけです。それでこの状態になる・・・ というのは正しくもあればそうでもないということもできて、たどり着くことはできるのですけれども、すぐに辿り着けるかというとそれは人それぞれになるかと思います。

対象なしに感謝しろと言われてもよくわからないお話かもしれませんし、理由なしに愛せよと言われたら勘違いして盲目的な愛になってしまうかもしれません。

結局、この種のお話というのは「結果」としてそうなるというお話で、「手段」ではないわけです。

手段と勘違いしてしまうと「理由なしに感謝すればいい」などと勘違いしてしまったり、或いは、「理由なしに愛すれば良い」という思い違いをしてしまうかもしれません。この種の勘違いは、それらを「結果」としてではなく「手段」だと誤解してしまうことにあります。

手段としては実は割と普通のスピリチュアルで言われているお話になってきて、(集中の)瞑想をするだとか、道徳的に生きるだとか、そのようなお話になります。

基本的なところは社会生活で常識と言われていることと変わりなくて、社会通念的な常識に従って道徳的に生きることだとか、「理由あり」で感謝をすることだとか、「理由あり」で愛することだとか、そのような、行為のある愛、理由のある感謝、というものが基本になります。それらの、理由のある愛や対象のある行為を否定しているわけではないのです。

あくまでも、結果として「理由なし」の愛や感謝に行き着くというお話であって、それらは社会の道徳的なお話と相反するものではないわけです。

スピリチュアル的には、一番重要なのは瞑想で、瞑想の基本は眉間に集中することでありますから、瞑想をするにつれて感謝の気持ちも高まり、それは理由や対象があっても全然良くて、ただ結果として、ふと気が付くと対象がなくなっていたり理由がなくなっていてただ愛や感謝だけがある状態になっている、というお話なわけです。