愛に理由はいらないが、分かち合いは軽々しくしない

2022-01-16 記載
トピック:スピリチュアル: 呪いとトラウマ

世間一般で「愛によって分かち合いをする」みたいなお話がよくありますけど、スピリチュアルであればあるほど、そういうお話に関わらない方が良いのです。

と、言いますのも、そのような場所は最初こそ崇高な考えや思想に基づいて行われることが多々あるものの、「制度」「組織」と化してしまうと、そこはもはやフリーライダーの入り込む余地を作ってしまうからです。

そもそも、感謝や愛に理由や対象や行為はいらないというお話と「分かち合い」みたいなお話は本質的にはあまり関係がなくて、分かち合いをしていようがしていまいが、その状態に関係なく全ては愛ですし、同様に、分かち合いをしていようがしていまいが、そこには感謝があるわけです。

ですから、「分かち合い」を「条件」にしてしまって、分かち合いがある時だけ感謝をする、ということでは本来ないですし、同様に、分かち合いがある時だけ愛がある、ということでは本来ないわけです。

分かち合いをしようがしまいがそこには愛があって、同様に、感謝も存在するのです。

ですから、分かち合いをするかどうかは本来的に「必要としているか」という点だけであって、機能的に分かち合いをする組織・団体が作られたならばそこには常に愛があるのはもちろんですけれども、かといって、その機能・組織・団体がなくてもそこに常に愛があるわけです。

愛や感謝というものを「条件」にしてしまったが最後、その条件が取り払われた時に愛や感謝がなくなってしまう、ということでは本来ないわけですけれども、そうは言いましても、世間一般には愛や感謝というものは「条件」として扱われていて、愛や感謝というものを作り出すために「与える」だとか「分かち合い」みたいなお話が度々出てくるわけです。愛や感謝の形を示すために与えたり分かち合いをしてみせて、その行為がなくなったら愛や感謝がなくなった、と判断するのが世間一般のお話かと思います。

本当に自分がたくさん持っていて分かち合いをすべき時にはするべきですけど、自分が困っているのに愛や感謝を示すために与えることをする必要はないわけです。そのような行為に関係なく愛や感謝というものは存在しているわけです。

何故、このようなことが大切かと言うと、割と宇宙系の人やライトワーカーの周囲にはフリーライダーが近寄ってきやすくて、そのような精神性の高い人は周囲に協力者が沢山いてお金にも割と不自由しないわけですけれども、そのような宇宙系あるいはライトワーカーの人は割と世間知らずで騙されて財産を奪われたりずるい人のフリーライドを許してしまったりするからです。

この辺り、宇宙系やライトワーカーの人は人生をもっと学ぶ必要があって、世の中にずるい人は山ほどいて、そのような人が困っているそぶりを見せたからと言って軽々しく分かち合いや何かを与えることをしてしまうとどんどんとエスカレートして全部奪うまでやめない、だとか、与えることをやめたら今度は「なんて酷い人だ」と攻撃するようにすらなってしまうからです。はっきり言って「図々しい」人はどこにでもいるものですけど、対等ですらない状態で与え続けられた後にそれが停止したら、与えられることが当然だと思っている人は今まで与え続けてくれた人に対して非難をして激しく罵ることになるでしょう。であれば、最初から与えることなどせずに、関わらないことです。軽々しく「分かち合い」などしないことです。それが、本来は分かち合いが自然にできる筈の宇宙系やライトワーカーにとって少し苦しい状況になることもありますけど、長期的に見て関わらない方が良い人というのは山ほどいますので、軽々しく「与える」などということをしない方がいいわけです。

具体例で言いますと、人ではありませんけど日本に対する韓国が好例です。日本が韓国に対して与え続けた結果、韓国が勘違いしてしまって、韓国は日本から延々と与え続けてもらわなければ気が済まず、日本が「もうめんどくさいから韓国あっち行け」と言っても韓国は「日本はどうして今までのように色々と面倒見てくれないのだ。なんて日本は酷い国なんだ」と罵ってくるわけですけれども、これは、本来は自立すべき韓国が自立していないために日本に付きまとっているわけです。人間関係においても、軽々しく与えてしまったが故に与える関係というものが常套化してしまい、独立した関係になれない時があるかと思います。ずっと隷属の関係を続けるということもできませんし、韓国が独り立ちしてもらわなければならないのと同様に、人と人の付き合いにしても、たとえば神と純情な神の下僕としての人間の関係性のようなものではなくて、一人と一人の付き合いを割と対等にしてゆくためには分かち合いは軽々しく行うべきではないわけです。あるいは神と神の下僕の関係ならまだマシですけど変に付き纏われたり、あるいはストックオプション等の制度をうまく使われてフリーライドを許してしまうと人あるいは組織の資源を食い潰すことにもなりますし、本来貢献することができたことより遥かに小さな結果しか生み出せないことになってしまったりするわけです。結局、そのようなもらいっぱなしの人あるいはフリーライドを狙っている人というのはその先に他に与えるということをしないで自分が抱え込んでしまいますから、資源が末端まで行き渡らなくなってしまうわけです。それなのに他の人が「与える」まで付きまとってきたり、与えないことに対して「なんて酷い人なんだ」などとフリーライドでしかないのに勘違いして罵ってきたり、やもすれば自分がしてもいない貢献を想像で積み上げて成果を誇ったりして、その想像が膨らむことで爆発し、やがては怒ったり激しく呪ったりしてきますから、そのような不要な呪いを受けることを避けるためにも勘違い君と長引く面倒な付き合いをするべきではなくて、そもそも最初から関係を持たなければいいので、勘違いされたりカモ扱いされないためにも軽々しくすぐに与えない、気軽に分かち合いをしない、などと言ったこの世での処世術が必要になってくるわけです。それによって、最初から面倒な人との関わり合いを持たないでいることができます。

この世の資本主義は奪うという面において分配が滞る面もありますけど、その一方で、一応は資本主義に従うことによって分配も可能という一面もあるわけです。ただ単に無条件に分かち合うということが現代においてフリーライドや隷属関係あるいは呪いに繋がってしまう以上、一応は資本主義という形式に則った上で少数が大多数に与え続ける社会に移行するしかないかな、と今は漠然と考えております。まだ形には全然なっておりませんけど、この種のことは大多数の資本を持つ一部が決断すれば割とすぐに変わることですので、そこまで悲観はしておりません。