悟りに禅定は必要か?

2022-01-17 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

テーラワーダ系の仏教においては禅定と悟りの改訂が割と詳しく定義されていて、それなりの参考になります。ですが、それは確かに道標にはなるのですけど、最後の方になるとなかなか曖昧なお話になってきて、わかるようなわからないようなお話になってしまいます。

よく、テーラワーダ系あるいはヴィパッサナー系の南伝仏教・上座部仏教においては集中瞑想なのか観察瞑想なのか、というお話が話題になります。

瞑想の階梯を禅定に当てはめて、色界禅定と無色界禅定に分けているわけです。色とは形あるもののことで、ざっくり言えば物質ということです。色がない無色界とは要は精神の世界のことです。

そして、テーラワーダ系においては基本的に色界(物質界)の禅定から始まって欲望の世界を脱し、やがては無色界の世界の禅定に入ってから悟りの阿羅漢に至る、となっております。しかしながらテーラワーダ系あるいはヴィパッサナー系の流派においては色界の禅定だけが必須になっていて、無色界の禅定は推奨かつ基本路線ではあるものの必須とはなっていないのです。

この辺りの理屈を持ち出すことで、テーラワーダ系あるいはヴィパッサナー系の瞑想をしている人たちの間では度々「悟りに集中の瞑想は不要」みたいなお話が出てくるわけです。

その説明においては「無常」を体験して一気に阿羅漢まで悟る、みたいなお話になっています。

それで流派に認められて阿羅漢の称号、すなわち悟りの称号を得てそれなりの位に就く人がそれなりにいるかと思います。

これは、説明としてはなかなか分かり辛いお話で、私は昔は「この説明はいかがなものか」と思っていたたちでありますけど、今となっては「どちらにせよ到達すればスッキリと理解できるのだから、到達していない人に向けた説明が多少分かり辛くても、それは修行の妨げにはならないのではないか」と、柔軟に考えております。

ですから、この種のテーラワーダ系の説明は、実際のところ本当のところと比べると説明としては不十分でなかなかに誤解を生じさせるお話かとは思うのですけど、だからと言って修行の妨げになるかというと、そうでもないように思うのです。

結局、そういう言い方もそう間違いではなくて、と同時に、それなりに間違ってはいるお話ではあるのですけど、知らない人向けの説明としては、それはそれでありなのかな、と今は思っております。自分がするならもっと違う説明をしますけど、他の人がそう説明しているからと言って、それをわざわざ否定してもっと良い表現があるなどというような野暮なことはしなくてもいいのではないか、と最近は思います。

たまに気が向けばもう少し書いてみたいとは思いますけど、結局、五感の感覚でしか瞑想を捉えていないから集中があるとかないとかいうお話に終始してしまっているのであって、「行動」としては集中でよくて、「結果」として「起こる」瞑想としては観察なわけです。

ですけど、テーラワーダ系の説明に基づくと、観察すらも「行動」になってしまっているからよくわからないお話になっていて、「観察、という、行動」を瞑想で行うことを目標としてしまうのですけどそれは行動としては行うことはできなくて、ヴィパッサナーという観察状態は「起こる」ものなわけです。その、起こった状態においてはある種の深い意識の観察というものが一応は深いところで意図的に発生しますからその深い意図を意図として行動と見立てることもできますけど、それは顕在意識での通常の意思決定とは異なるレベルにあるわけです。

テーラワーダ仏教の定義に従うと悟りに禅定、すなわちそれは集中ということですけど、その説明に基づけば悟りに集中は不要、ということになりますけど、そういう言い方も一応はできて、あながち間違いではないですけど、なかなかに説明不足かな、と思います。

この辺りは何度も書きましたけど、気が向いたらまた書いてみたいと思います。