私が転生する前に導師が言っていたこと


私自身はグループソウルから分離した後に2回しか転生していない割と若い霊といえばそうなのですけどグループソウル由来の記憶は色々なものがあり、私のコアになっている魂の一部のラインのとある前世においては霊能力のことで悩みがあったようです。

そのラインの前世ではそれなりに霊能力を持っていて、悪霊を霊視して避けて歩いたり包帯のようなものでグルグル巻きにして退治したり、予知能力も使って生活の糧には困らなかったり、割とやりたい放題でした。

しかし、グループソウルに戻る前の数回の転生では割と疲れてきており、見えすぎるが故に魑魅魍魎がたむろしているこの世界を生き抜くことが大変な状況にありました。

それは、今から思えばいわゆるアストラル次元の感情などを扱う霊能力者だったのであって、それより上の、カラーナやプルシャの次元に超えられていないが故に苦しんでいたように思います。

そもそも私の過去の魂の経歴からすると元々は神霊に近い存在で、かなり昔のラインの人生の記憶を辿ると今のようにカラーナの次元あるいはもっと高い次元の意識で生きていて、意識が多次元にわたって広がっている状態が元になっていたように思います。しかしながら、転生を重ねるうちに波動が落ちてきて次第に神霊としてのプルシャの意識からカラーナ次元に落ち、やがてはそれよりも落ちてアストラルの感情的な次元に落ちて、アストラルの次元というのは悪霊とか幽霊とかが住んでいる世界ですから、日常生活においてそのような変な妖怪や魔界のような風景を見て暮らしていたわけですから、疲れてしまうのも仕方がないと言えます。

そのように疲れていた私ですけれども、一旦はグループソウルに戻って、また分霊を作って、その分霊は元の私とは少し違っていたわけですけれどもそれなりに課題は継承していて、そんな私に霊の導師が言ってきたことがあります。

その導師が言うには、霊的能力をなくしてしまって感情や悪霊あるいは変な意識体を避けずに全てを受け入れることで克服することができる、とのこと。具体的には特殊な霊界のマントをつけて転生すればよくて、昔はこのマントを使って強制的に霊能力をゼロにして転生することで修行していた人が大勢いた。今はほとんど使われてはいないが、使ってみないか? 良い修行になる筈だ、と言うのです。

マントには特殊な封印の機能が備わっていて、特殊なマントラを唱えるかあるいは誰かがビリビリに破れば元に戻るようなので、まず試しにまとってみたところ、周囲の霊的な存在、魑魅魍魎や普通の霊も含めて全く見えなくなり、まるで盲目で生きているかのようで恐怖を覚えたのでした。そして教えられていたマントラを唱えたら封印が解けてマントが外れたのですけど、あまりにも動揺した私に向かって導師が言ったのでした。

感情的なこと、霊的なこと、魑魅魍魎、悪霊、それら全てを受け入れ、生きているうちにそれらが近寄ってきて何をしたとしても全ては大自然の一部なのだと理解すること。これは全て修行なのだよ。このマントをまとって生きるともはや悪霊を避けることもできないが、悪霊と時に対峙することで貴方は鍛えられる。しかも、その意味もわからず貴方は苦しむことになる。しかし、既に貴方は悪霊が大勢いるこの世界で苦しんでいて、それを克服したいと思っているのでないのかね? このマントは貴方の修行の助けにもなるし、一方で、貴方の体とオーラを守る盾にもなるので、苦しみにより遭遇する機会が増える一方で、貴方はマントによって守られているのでそこまで心配はいらないのだ。このような荒業をすることで貴方は苦しむだろうが、その分、早く成長することができるようになる。この修行によって、感情的な世界から抜け出し、神の世界へと戻る手がかりを得ることができるだろう。

きちんとは覚えていないのですが、こんな話だったように思います。その時の私は、このまま魑魅魍魎の世界にひっそりと隅で生きるよりはそれらと対峙して悪霊にも影響されない自分を作りたい、と願ったように思います。実際、かなり今世は大変でたぶん1000回くらいは自殺したいと思ったような辛い子供時代ではありましたけど何とか切り抜けて生き延びることができ、今に至っています。

今から思えば、最近まで、能力的なものを否定できておらず、能力に頼っていたように思います。それが、マントによって強制的に能力を無くした状態になることで能力を否定して次の段階へと進むことができるように思います。

プラクリティから、つまり物の世界から純粋精神の世界へ飛躍するには、必ず、物の世界に属していた性格、あるいはその力、能力というようなものがすべて脱落をするというか、いったんは消えてしまわないと、純粋精神の世界には入れない。しかしそれらを否定するということは、そう簡単にはできない。死んでも生きても一切を神に任せるというような、自分のあらゆる放擲、自分を捨ててしまうということが徹底しないと、プルシャの世界にはなかなか入り込めないのです。「本山博 著作集8」

プラクリティとは物のことで、純粋世界というのはプルシャのことでカラーナの次元の次にある神霊にやや近い個人としての段階になります。そのプルシャの段階の前であるアストラルおよびカラーナの次元までは物としての性質が強く働いていて、特にアストラルにおいては霊との関わり合いがあって魑魅魍魎が大勢いて、一方でカラーナは光っていて知的で至福ではありますけどそれすらも否定していかなければ神の世界へと辿りつくことはできない、ということだと思います。

私はまだそこまでのレベルではないですけど、方向性として、ヨーガ・スートラにおいても言われていたような「能力が出てきても能力に執着してはいけない」のようなことと同様の方向性であると理解できます。

私の場合は割と生まれる前の計画でマントをまとって生まれてきたわけですけど、たぶん能力があると能力に頼って楽に生きようとしてしまっていたかもしれず、それは、ある程度の段階に達した後であればそれでもいいとは思いますが最初は努力をすべきなのかなと思います。

導師はそれほど多くを語ってはくれなかったですけど、割とライオンの子供を千尋の谷に突き落とすようなことをしてくれて、今から思えばなかなかスパルタだったように思います。

ですけど、そのおかげで、今まで霊能力、特にアストラルの次元の能力に頼って生きていた自分を否定することができてより高い段階へと進むことができたように思います。

それは、生きるも死ぬも神様にお任せ、と言う気持ちで決めたようにも思います。

いわば、今世を始める前にある種の覚悟を持って生まれたわけで、既に死ぬ用意ができている、とも言えると思います。大体の山場は超えたように思いますので、今のところ割とその決断は成功だったように思います。