日によっては瞑想をしても単に平穏な状態が続くだけで感謝の気持ちが自発的に湧き上がってこなかったりします。至福の感謝にはすぐには至らないと言うこともありますので手順を追って体のオーラをチェックしたりオーラを循環させたりマントラを唱えたりします。
しかし、それでも大して変化がない時もありますので、その時は、執着せずに「そんなものか」と思って平穏なまま瞑想を続けます。
これら感謝の気持ちにせよエネルギーの高まりにせよ、認知できるものは全てカーラナ次元(コーザル次元、原因体としての次元)あるいはそれより下のアストラルの次元(主に感情)に関するものですので、たとえ感謝の気持ちが湧き起こってきたとしてもそれは一時的な「体験」であると心得るべきだと思います。
カーラナ次元であればそれはカルマの根源でもあり、分類としてはカーラナ次元より下は「物」として扱われますので、感謝の気持ちと至福が湧き起こってきたとしてもそれはまだ「物質」の世界に関連した体験であるわけです。
実際にはそれを超えて、つまりは「物体」の次元を超えて純粋精神の世界であるプルシャの段階へと至ることが次の目標でありますので、一時的な体験としての至福がなくてもそれに執着すべきではないと思うわけです。
実際のところ深い感謝の気持ちと至福がないと言うのは比較のお話であって既にそれなりのレベルでの幸せと平穏の気持ちは常に維持できておりますので、ここで言っているのは感深まった状態における深い自発的な感謝と至福のお話なのです。そのように、割と一時的な体験から始まって常時に続く至福と平穏に至るという一時的から平時と言うお話もありますし、それ以前に、そもそも体験として現れて来るものに執着すべきではない、というお話もあります。
スピリチュアル的に言えば「手放す」と言うことでもあって、至福ですらも手放すことで次の段階である純粋精神の世界(プルシャの世界)に至ることができるのかな、と思います。
至福や自発的な感謝の気持ちは一時的なものから平時のものになればそれほど気にならなくなりますし、そもそもそのような気持ちは手に入れようと思って求めるものでもなくて自発的に湧き起こって来るものでありますから、あまり気にしていなくてもベースとなる基本の感謝の気持ちは少しずつ上がってきていて、平穏の状態も一時的な深まりとしての平穏から平時の平穏に変化してきておりますので、至福や平穏も「体験」としての深まりが減ってきたとしてもあまり気にするものでもないように思います。
スピリチュアル的に言えば「手放して」「次元を上げる」とでも言うのかもしれません。
そのことが、体験としては「感謝の気持ちが湧き上がってきたりそうでなかったり」と言う感じで現れてきていて、心の動きとしては「ま、いっか」と言う感じで、あまり気にしていない感じではあります。
ここで一応書いておいたのは、少し前までの記事を読んだ人が「そうか。いつも常に至福の状態でずっと感謝の気持ちを持ち続けている必要があるのか」みたいに勘違いしてしまうと良くないなと思ったからで、確かに感謝の気持ちが自発的に湧き起こってくればそれはそれで好ましいことだったり素敵なことだったりしますけど、至福や感謝の気持ちがそこまででなかったとしてもそれは主観として相対的に、普段の状態と比較してのその時の状態の浮き沈みがどれだけあるかで至福だとか感謝の気持ちが「体験」として現れてくるのであって、普段から常に至福や感謝の気持ちで生きている人がわざわざ「至福です」とか「感謝しています」なんて言わないのと同様に、「至福の状態で生きています」とか「感謝の気持ちを持ち続けています」なんてわざわざ言う必要がなくて、そのように思うのであればそれは特別な一時的な「体験」でしかなかったりしますので、まあ、至福だとか感謝だとか、大切は大切ではありますけど、あまり気にしない方がいいと思います。
あまり気にしていなくても、瞑想やヨーガなどを続けていけばベースとなる感謝や至福の気持ちは少しずつ上がっていくのが普通だと思います。