そもそも流派が違いますので明確に区別はできないのですけど、大まかな分類としてハイヤーセルフは本山博先生の言うカーラナとプルシャの混合と思われます。
このプルシャは一般的なヨーガのサンキャ哲学の言うプルシャとは少し違っていて、サンキャ哲学においてはプルシャとは純粋精神のことですけど本山博先生の言うプルシャはサンキャ的な「観照」に加えて「働きかけ」も行う純粋精神で、もう片方の対としてプラクリティが物質に対応していて、純粋精神のプルシャと物質のプラクリティがこの世を形成していて、サンキャ哲学ですとプルシャは観察・観照をする純粋精神でプラクリティが物質、と言う位置付けなのに対して本山博先生はそれに加えて「働きかけ」と言う動きをプルシャに追加しています。
その位置付けだけでなく、本山博先生の場合はプルシャの段階を一つの階梯として位置付けており、単なるヨーガ哲学として机上で学ぶだけでなく実際にプルシャを認識して動かす段階に至ることができると言います。
そのような、本山博先生的な位置付けに基づくプルシャですけど、同先生の言われるところのカーラナの段階もあって、カーラナの段階は至福や光を感じる理性的なはっきりとした明確な知識、認識の段階でありますけど、ハイヤーセルフはそのプルシャとカーラナの両方を含有しているように思えるのです。
本山博先生も、段階としてカーラナが来るかプルシャが来るか(現れるか)は人それぞれで、アストラル界(主に感情)の次にカーラナの至福・光・理知的な認識が現れるかあるいはプルシャとしての純粋精神が現れるかは人それぞれと言っていますので、実際には、「現れ」としては人それぞれで異なりますけど、このプルシャはカーラナ及びそれ以前のアストラル界及び肉体のような粗大な現れに対しても満遍なく浸透しているように思えるのです。
ですから、カーラナの段階が来てその後にプルシャが現れる、と言うのが段階としてはそうなのですけど、実際には、それ以前から既に、気付いていなかっただけでプルシャが満遍なくプラクリティ(物質)に満遍なく浸透していて、それ故に肉体やアストラル体及びカーラナ体の全てが実は最初からプルシャの影響を受けているのだとすれば、カーラナを通り過ぎるかあるいはすんなりと通り抜けてプルシャの認識に至る、と言うのもありえるのかなと思います。
となれば、そもそもハイヤーセルフとは基本はプルシャとしての純粋精神かなとは思うのですけどこの世に関わる時にはカーラナとしての素質も備わっていて、その、プルシャとカーラナの混合としてのハイヤーセルフがこの世の人間に接触してくる、と言うのは理にかなっているようにも思います。そのように、肉体を持って生まれて生きている一人の人間にハイヤーセルフが接触する際には純粋精神のプルシャだけでなくカーラナも備わったものとしてハイヤーセルフが接触して来るわけで、そもそも純粋精神のプルシャだけだとなかなか生きている人間に接触するのは難しいように思えて、何がしかの接点としてのカーラナがあるようにも思います。
カーラナを繋ぎ役としてハイヤーセルフの側にも肉体を持った人間の側にも両方にカーラナを持って波動が調整され、次第に生きている人間の側の「肉体・アストラル体・カーラナ体」とハイヤーセルフの側の「カーラナ体・プルシャ」とが重なり合って、カーラナが繋ぎ役になって顕在意識とカーラナそしてプルシャまでとが少しずつ繋がってゆくのかな、という気が致します。
となればハイヤーセルフと接触したり合一するところが終点ではなくて、ハイヤーセルフと繋がった時点ではカーラナの性質が強く出ていて「至福」「光」「感謝」などが現れて、それは論理や言葉を超えたものですのでそれはそれは素晴らしいのは確かですけどまだそれは神様の世界ではなくて、少なくともプルシャの段階に上がらなければ悟りとは言えず、プルシャと言えども悟りのまだ入り口みたいな物なのかなと言う気が致します。
私は今後は、今いるカーラナの段階からプルシャの段階へと至るところが課題かなという気がしております。