実際には「悟り」はそのもう1つ先ですけど、一旦のゴール設定としてはカーラナ次元で十分のように思います。そのくらいまで行けば人生を豊かに暮らすことが十分にできるようになりますし、いわゆる「癒し」「光」「感謝」「至福」の中に暮らすことができるようになります。
これを悟りと言っている流派もありますし、そういうところは実のところかなりの大多数を占めているような気が致します。
始祖が最終的な悟りを得ていても弟子たちの理解力次第で流派の限界というものが定められ、悟りの定義が変わってしまうこともあるように思います。
例えばブッダやキリストは明らかに先のレベルの悟りを得ているのにも関わらずその後の弟子たちがこのカーラナ次元の悟りを最終地点と位置付けてしまっているように思えるのです。
カーラナ次元の次はいわゆる「プルシャ」の段階で、その段階になると現実に対する根本理解が訪れ、いわゆる純粋精神であるプルシャと物質であるところのプラクリティとの関係性が根本から変化します。
カーラナ次元というのはまだ物質の世界ですからカーラナ次元の境地に至ったところで現実を動かす力は全くないかあるいはあってもほんの少しの力しか持ちませんが、プルシャの段階に至れば、それでも限られた能力ではあるものの、カーラナ次元とはそもそもの次元を異にしているように思われるのです。
次元を飛び越え、多次元に実際に生きて知覚をしたり意識を同時並行に多次元に渡って行き渡らせるのがプルシャの次元であって、カーラナ次元以下であっても実際のところ根源のところは常に繋がっていますので時折ふとしたところで多次元に繋がることはありますが、割と常時、意識的に意図的に繋がることができるのかあるいはふとしたことで突発的に無意識的に予兆なく突然起こるのに任せるしかないというのがカーラナ次元の悟りになります。
ですから、時折そういうことがあったとしても、同時的に多次元に生きることができるプルシャの次元の段階とはカーラナ次元は次元を異にしていて、その間には大きな壁があるように思うのです。
ですから、ブッダやキリストが得たのはプルシャ以上の次元であったと思うわけですけど、現代の人が解釈すると自分が知覚できる範囲でしか理解というものは起きませんから、自分が理解できる範囲にまでブッダやキリストの到達点を過小解釈してしまうということがよく起こるわけです。
そのように、実際のブッダやキリストが得た悟りというものは高いレベルのものであったわけですけれども、そこに到達することはかなり難しいと思いますし、必ずしも、現代の人が同じ悟りに到達する必要はないと思うのです。
であれば、勘違いなのかあるいは意図的なのかはそれぞれかとは思いますが、そのような解釈に関係なく、単純に、そもそものスピリチュアルのゴールをプルシャ以上の本来の悟りではなくカーラナ次元に置くのが良いように思うのです。
カーラナ次元はとてつもなく大きな暖かい「光」として表現され、それは「至福」「感謝」「大きな意識」として表現され、実際、それに近いものです。実際のカーラナ次元は言葉を超えたものではあるのですけど、このような性質が多く備わっているものです。
このカーラナ次元に多くのライトワーカーあるいは一般の人が多少なりとも到達すれば地球は大きく変わると思うのです。
カーラナ次元は最終的な悟りではありませんのでまだまだ欠点や不十分な点は多々ありますけど、それでも、大きな慈悲、大きな愛、大きな感謝、大きな至福、大きな意識、と言ったものが現れる段階ですので、今の地球の現状のような各自のエゴが肥大化した現状と比べれば格段に良い世界であると言えるわけです。このカーラナ次元に多くの人の意識が到達するだけで地球は楽園に変わるものと思います。そうなれば、ひとまずのスピリチュアルのゴールをカーラナ次元に置くのは合理的であるように思います。
実際のところ、最初に到達するのが難しいだけで、後に続くのは割と楽ですので、とりあえず皆さんがカーラナ次元に到達して、その上でもう少しの人がプルシャ以上に到達しさえすれば多くの人をプルシャ以上に導くのは割と簡単なのではないかと思っており、最初のハードルとして多くの人をカーラナ次元に引き上げることかな、というような気がしております。