感謝と愛は感じても、まだ慈悲には至っていない

2022-01-28 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

普段の生活で何気なく感謝の気持ちが湧き上がってきて、瞑想で感謝の気持ちに溢れありがとうございます、と、ただ感謝を伝える瞑想をします。

ですけど、それはまだ、慈悲というレベルには至っていないようです。

とは言いましても、この延長線上に慈悲というものがあるのかな、という予感のようなものはあります。

世間で、慈悲とか愛とかは瞑想と割と切り離されて理解されていますけど、私の感覚で言いますと、瞑想の明確な「覚醒した意識」と「愛(そして慈悲)」は明確に繋がっているように思います。

慈悲の時は慈悲だけ、あるいは、覚醒した意識(による瞑想やスポーツ等)、というように分かれているかのように世間では理解されているかもしれませんが、実際には、この両者は不可分だと思うのです。

瞑想で覚醒した意識になれば愛の感謝の意識が出てくるように思います。

大乗仏教の教えにおいても、その実践においても、空性と大いなる慈悲との統一こそが、最高に重要な原理だと考えられている。それは大乗の教理のまさに真髄である。だが、本当は、知恵と覚醒した注意とが、分たれてることなく一体となっているのでなければ、真実、本物の慈悲は生まれてこない。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

多くの流派で清浄な境地、静寂の境地が悟りのゴールかのように考えられておりますが、それより先にある、空性(清浄な境地)と慈悲(愛と感謝と奉仕)とが一体になるレベルにならなければ悟りとは言えない、ということだと思います。

私はこのような階梯に基づきますと、慈悲とまでは行かないまでも多少の感謝と多少の本当の愛と思われるものを感じられており、方向性としは合っているように思います。慈悲と言えるようになるにはまだまだ愛の深まりが必要に思います。

今は、感謝はしていても、まだあくまでも個としての存在としての自分の置かれた環境における感謝と愛であり、何があろうとも「ありがたい」「ありがたい」と感じることができるとはいえ、それが、他人へと広がる慈悲の心とまではなっていないように思います。とは言いましても方向性としはそちらの方向なのはわかりますので、それほど間違ってはいないのかなと思います。

ですから、慈悲とは「結果」であり、慈悲という「行動」は存在しなくて、修行などの「行動」の結果として「慈悲」が生まれて、その慈悲が基になって「新たな行動」に繋がるということはあるとは思いますけど、その「慈悲」そのものは「行動」ではないわけです。行動ではありませんので「慈悲を行う」みたいなことにはならないのです。「何かをした結果、慈悲の気持ちが出てきた」とか「慈悲の気持ちがある故に、何かをする」ということはあっても、行動そのものが慈悲ということにはならなくて、慈悲を伴う行為というのはありますけどそれは言葉の表現だけのお話で、同時とは言っても実際には慈悲は行動そのものにはならなくて、、どちらかが先にくるわけです。

ですけど、実際のところ、慈悲とは行動のことだと一般的には理解されていて、世間に認められた特定の奉仕の行動をすればそれが慈悲であると理解されている風潮があって、それ故に「慈悲のために奉仕をするべき」だとか言って、あたかも行動しさえすればそれが慈悲であるかのような同調圧力あるいはマウンティングが割と行われていて、それ故に、他者を評価する際に具体的な行動によって判断する風潮があると思いますけど、実際のところ、それは「結果」としてはそうなのかなと思いますけど、「過程」は違うと思うのです。

世間では慈悲と行動とは一体かのように理解されていて、比喩的表現としてはそれもありですけど、実際には慈悲と行動とは別物で、行動の結果として慈悲が生まれるか、あるいは、慈悲の結果として行動するか、どちらかしかないわけです。まあ、この後者のことを慈悲の行動ということも確かにできますけど、理屈としてはそうなのですし、実際に慈悲を持っている人であればその通りですけど、世間を見た時に、一体、どのくらいの人が本当に慈悲の心を持っていて慈悲の行動をしているのかは人それぞれだと思います。大抵の場合は慈悲などなくて道徳あるいは世間一般で一応は慈悲だと理解されている一般常識あるいは同調圧力で慈悲と世間で理解されている行動をしているだけなのだとしたら、そうであれば、一般的には慈悲と行動とは一体ではないわけです。

ある程度の悟りの人にあっては慈悲の行動というのが成り立ちますけど、凡人としてはそれは分かれていて、凡人が慈悲を見出す「過程」としては、瞑想やサマーディの実践などを通じて空性や愛を理解し、やがては愛と慈悲に目覚める、という順番だと思うのです。

最初から無償ボランティアなどの「行動」を通じて愛と慈悲を学ぼうとしている人たちが大勢いますけど、それは、なかなか辛い道だと思うのです。ある程度の基礎があってそうするのであればあとちょっとを乗り越えるのにはいいのかもしれませんけど、理屈から言って、慈悲と愛を得るために必ずしも「無償の奉仕」は必要ないと思うのです。

繰り返しになりますが、これは、「愛と慈悲」とは「結果」である、ということです。修行の「結果」として慈悲と愛を手に入れて「無償の奉仕」とは何かの理解を得るのであって、順番は逆ではないわけです。順番を逆にして、最初に無償のボランティアのよくからない「無償の奉仕」とやらをして何だかよく説明されていない愛と慈悲とやらを理解できるかといえば、それはそうそう理解できないと思うのです。個人的には、そのような、理解なしの、「しっくりこない」修行もどきには反対なのです。反対とは言いましても自分がやらないというだけで、やりたい人がいれば好きにすればいいと思っていますけど、多くの場合、自分が愛やら慈悲やらを分かっていないことを誤魔化して自分が愛や慈悲が分かっていると思い込むために「行動」をして、それなのに自分の行動のモチベーションの根源が自分では分かっていなくて、自分が分かっていると思い込むために他人に対して「貴方は分かっていない」みたいな態度をとるようなめんどくさい修行者が時々いて、そのような勘違いした「無償の奉仕」をしているボランティア・スタッフあるいはヨーガでいうところのカルマ・ヨーギは逆に悟りから遠のくのではないかなと私などは心配してしまいますけど。

まあ、そうは言っても、他人のすることですので、好きにすればいいわけです。それすらも遊びであって、結果として楽しくやりさえすれば何であれ悟りに繋がります。楽しくやっている人はわざわざそんな面倒くさいことに関わらなくても、人によっては特別な修行しなくても楽しんでいれば勝手に悟るわけで、そもそも、行動と悟りとはあまり関係ないんじゃないかとすら時折思えてきます。

一応は全ては遊びであったとしてもある程度の修行の道というものはあって、その一つとして、上記のような瞑想による空性と愛の理解のお話があって、その基礎がないと慈悲というものは本当には出てこないのかな、と思うわけですけれども、その一方で、どこかの流派の教えに従って素直に「自分は慈悲を知らないので知るためにカルマヨガをしている」みたいなことであれば割と正直かと思いますので、ボランティアやカルマ・ヨーギが必ずしも変というわけでもなく、斜めに見て勘違いをしている人がぼちぼちいて目立つ行動をしている一方で、本来の姿で(地味に)修行している人もそれなりにいるわけです。

仏教やヨーガなどで慈悲というものはとても大切にされていたりしますけど、実際、お題目として慈悲を言いすぎて、慈悲とは何なのかよくわからなくなっているようにも思います。慈悲というものは私も漠然と理解していたわけですけれども、ここにきて、ハートでただ「ありがたい」と思うような自然と感謝が湧き上がってくるような状態になってみると、どうやら慈悲と瞑想の静寂な境地は繋がっていて、それは両方とも私自身の心の本性の表れであって、悟りに近づけば近づくほど、このような清浄な境地に対する理解と慈悲に対する理解が深まっていくように思うのです。

ですから、慈悲というのは決して単なる道徳ではなく、悟りの境地に紐づく重要な属性の一つであると思うのです。

それ故に、最初から色々と頭に詰め込み過ぎて、慈悲というものがなんなのか、わかるようでいてわからない、割とスルーされてしまうか、あるいは、なんとなくわかったつもりになってしまっているものになっているような気がするのです。

清浄な境地、平穏な境地とは心の姿であり、かと言って、思考が上がったとしても心が乱されない、という境地があって、ゾクチェンやヴェーダンタがいうように清浄な境地、平穏な心というのは「土台」であって、(よって、顕教や密教がいうように、何も思考がない状態がゴールなのではなくて、)心の波、思考の波というのは常に現れては消えてゆくから囚われることなく流せば良い、というのが悟りの境地の一つの側面であって、思考を流すとは言っても実際には鋭い観察の目がある状態での冴えた状態による思考の無執着であり、文字通り「そのままの心のありよう」であるサマーディを瞑想あるいは日常生活を通じて実践することにより心が穏やかになってゆき、そうして雑念にはもはやほとんど左右されなくなり、思考は鋭くなり、そのような状態になれば心の本性(ゾクチェンでいうところのリクパ)が明らかになってきて、そうなると、単なる平穏な境地からまず始まっていたものがやがて、それに加えて感謝の心が出てきて、そしてその先に慈悲の心が開けてくると思うのです。

であれば、慈悲は安直な行動とか思考とか祈りとかそんな簡単に身に付くものではなくて、ある程度の基礎としての平穏の境地、静寂の境地などがあって初めて開けてくるものだと思うわけです。