感謝と満足がある時、悟りを求める思いすらも消え失せる

2022-01-29 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

その満足はいわば完璧に近くて、それだけで充足していて、何も不足がなく、ただただ満足と感謝が湧き出ている状態です。ですから、それ以上の何かを求めることもなく、現世利益はもちろんのこと、悟りを求める思いすらも消え失せて、ただ満足だけが続いている幸福な状態になります。

感謝と満足とは愛ということでもありますけど、それは対象のある愛ではなく、自身の奥底から湧き上がってくる愛であり、いわば「理由がない」愛でもあります。理由がないからこそその愛は途切れることなく湧き出てきて、人間的な経験においてはもちろん「始まり」というものが存在しているわけですけれども、比喩的には、理由がなく始まったということで、一応「始まりがない」みたいに言われることもあります。そう言ってしまうと語弊もありますので、始まりがない、というよりは、理由がない、と言った方がわかりがいいように思います。

感覚的にはその愛は太古の昔から続いていて永劫の未来にまで続いているように感じられます。ですから、感覚としては「始まりがなくて」「終わりがない」というのは正しいのですけど、人間的な理解としてはそれはあり得ないと理解されてしまいますから、表現としてはそれよりも「理由がない」と言った方がわかりがいいように思います。そのように、比喩的にいえば始まりがなく終わりもない、しかもそれは理由なく常に存在している、そのような愛。愛と言えばそうなのですけれども、感覚としては、それは感謝と満足という形で現れるわけです。

その、理由のない愛がある時、感謝と満足で満ち溢れ、そうなれば、何かを求めるだとかいうことはなくなり、不足もなく、例え悟りですら求めることがなくなって、その状態で文字通り満足することができるわけです。

よく、悟りのお話とかで「悟りを求める心すらも消え失せなくてはならない」みたいなことを聞きますけど、いわばこの状態はそれを体現しているとも言えます。もはや満足し切っていて、しかも、自らがいる環境、自らが遭遇する日々の生活のかなりの部分に対してまで感謝の念を覚えることができていますので、そうなれば、もはや「悟りを求める心」すらも些細なこと、あるいは、慣性で続けていること、あるいは、本能でのみ続けていること、にもはや変わってきているように思います。

一応は道徳的あるいは悟りへの道を歩み続けるけれども、もはやそれは今世のカルマの結果でしかなくて、カルマというのは一度生まれたら死ぬまで続くカルマの種類であるプラーラブタカルマがあって、それにより悟りを求める道を歩み続けているのだ、とすら言えるように思えてきます。

この満足と感謝の念はそれだけ強くて、主に感謝の方が強くて感謝により満足もする、という順番のようにも思います。ですから、最初にあるのは感謝で、とにかく日々の日常生活が感謝の連続で、感謝をすることが悟りの求めよりもかなり強くなってきていて、悟りどうこうより、感謝それ自体こそが真理そのもので、実は真理どうこうを考える必要すらなくて感謝だけしていればいいのではないか、とすら思えてきます。

ですけど、それは到達点としてそう思えるのであって、きっとそれは顕教がいうようにゴールではあるのですけれども、修行方法としては「感謝する」というだけですとなかなかきつくて、色々な手法が必要になってくるとは思うのですけれども、そういうことは頭ではわかってはいますが、今となってはそのような過程のお話は割と興味を失い始めていて、過程のことより、到達地点である感謝の連続というところに深く深く入りつつある、という現状のように思います。