神智学ではブッディが至福と愛に相当

2022-02-05 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

神智学では人間の体を大きく4つあるいは7つの階層で分けていて、4分類においてはエーテル、アストラル、メンタル、およびコーザル各体と分かれていますが、このうち、コーザル体(原因体、サンスクリットでのカーラナ体、ヴィジナナマヤ・コーシャVijnanamaya Kosha)が知識、英知の静けさに相当し、その上にあるブッディ体(アーナンダマヤ・コーシャAnanadamaya Kosha)が至福、愛、慈悲に相当すると言います。

コーザル体の顕著な要素が知識であり、終極的には英智であるように、ブッディ体内の意識の顕著な要素は至福であり、愛である。前者の特徴は英知の静けさであるが、後者からは最も親切なる慈悲が無尽蔵に流れ出る。そのためにヴェーダンタ学派はブッディ体をアーナンダマヤコシャAnanadamaya Kosha すなわち至福の鞘という。 「神智学大要4 コーザル体(A・E パウエル著)」

神智学はインドのヒンドゥやヴェーダの教えを基にしておりますが若干それらとは違った面もあります。それでも、それなりに参考になるように思います。似たようなもので、本山博先生の言われるコーザル体とも似ているようでいて少し異なるように思います。神智学においてはエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体およびブッディやアートマなどと分かれてはいるものの、書物によって分類や解釈がまちまちで、神智学ができた時代背景を考えますと情報も不足していたと思われますので今ほどまとまっていないのも致し方ない気も致します。

本山博先生の分類にはブッディの段階はなくて、もちろん用語としてブッディという言葉は使っていますけど段階としては位置付けていなくて、本山博先生の場合はコーザル体の後にはプルシャの段階となっていて、思うに、そこには少し飛躍があるように思うのです。

その、少し飛躍があって説明が飛び抜けているところを補うために、本山博先生のおっしゃるコーザル体とプルシャの間に、神智学のいうところのブッディを入れると階梯としてわかりやすいようにも思います。神智学の説明はわかりにくいところもあるのですが、階梯としてブッディが入っている点はかなり良くてわかりやすいようにも思います。

ブッディそれ自体はヨーガやヴェーダンタなどではもちろんお馴染みの概念・用語で、それは理知的な思考および知性、認識の作用を意味します。それはその通りなのですけれども、神智学においてはそれを一つの階梯とみなしているのが興味深いのです。

神智学によりますと、意識の成長は以下の階梯を辿ります。

1.物質階層
2.メンタル
3.ブッディ
4.アートマー
5.アヌパーダカ
6.アーディ

アストラル等と言われているのはここではメンタルに含まれます。

あるいは同じ神智学でも書物によっては似た分類もあります。

・肉体
・アストラル
・メンタル
・ブッディ
・アートマー

あるいは

・下位マナス
・上位マナス
・ブッディ
・アートマー

また、神智学ではこれらの状態をヨーガのサマーディ(三昧)とも対応付けて解釈しています。

(神智学的な解釈に基けば)ヨーガによれば、トゥーリヤTuriya すなわち高い三昧状態はブッディ意識に関連し、スシュプティ sushupti は精神(メンタル)意識に、スヴァプナ svapna はアストラル意識に、ジャーグラト jagrat は肉体意識に関連する。 「神智学大要4 コーザル体(A・E パウエル著)」

この用語はサマーディというよりむしろ意識が起きている状態および浅い眠り、深い眠りという説明の文脈で使われることが多い気がしますが、神智学的なこのような解釈も時には興味深いです。

特に、ブッディがトゥーリヤと対応付けている点が興味深く、このトゥーリヤという言葉はヨーガのグル、特にたしかインドのOSHOラジニーシが好んで説明で使った言葉かとおもいますけど、その文脈におけるサマーディ状態が実は神智学ではブッディ意識に対応づけられていた、というのはなかなか興味深い点であります。

これらのことから、最近の私の状態、特に胸のおくから湧き出る「感謝の思い」に満たされる感覚は、おそらくは神智学でいうところのブッディに相当する感覚であると思われます。とは言いましても、そのまだまだ入り口、ということかなとは思いますけど。

本山博先生の階梯ですとコーザル体の後はいきなりプルシャになっていて、それはちょっと飛躍がありすぎるかなと思うのですけど、神智学的な解釈におけるブッディということであればしっくりきます。本山博先生の解釈に基づくと私はコーザルの段階、ということになるかと思いますけど、神智学の階梯ではブッディ、ということかなと思います。

本山博先生の階梯の場合はコーザルにいくつかが含まれていて理知的および理屈、理論というところと愛や光みたいなところまでもが一緒になっている気がしているのですけど、神智学の場合はコーザルは理屈や理論に特化している一方で、ブッディの方が愛や慈悲となっていて、しっかり分かれている点もわかりやすいです。

ただ、ブッディという用語、その言葉だけを見てみるとヨーガやヴェーダンタにおけるブッディという言葉とは意味も階梯も異なっていて、その点はいまいちかなと思います。そもそもヨーガやヴェーダンタではブッディは階梯ではなくて理論と精神の構造の説明で使われる用語でしかないですし、なかなかに神智学が特殊な感じではありますけど、実践としては階梯の一つとしてこのブッディの段階を設けるのはわかりやすいように思います。