真言宗やインドのヒンドゥなどでは火の儀式である護摩(ごま、ホーマ)あるいはプージャなどが行われるわけですけれども、これは一般的には浄化として理解されており、悪いものを取り除いたり神様に祈りを捧げると言った意味があります。
しかしながら、現実には、しっかりと実行した場合にはそれは魂の一部を消して無に返しているのです。
転生を重ねて経験を重ねてきた魂の一部が、もはや不要とみなされて切り離され、火の儀式によって無に返されているのです。ですから、火の儀式は単に習慣や浄化として軽々しく行われるべきではなく、自分のオーラの一部を切り取って無に返す儀式であると理解すべきなのです。
とは言いましても最近の儀式は単なる形式になっており、自分のオーラを切り離したりはせずに(そんなことは能力的にできずに)ただ木を焚べているだけだったりしますからそれほど心配はいらないのかもしれません。
元々のこの火の儀式は神々にまで遡って、神々や、天使なども実は似たような儀式を行います。
大天使たちが集まって自分の中に溜まってしまった良くないオーラをゴミのようにして掻き出して、そのいらないオーラを皆の集まった中心に集めて、その後、火の神(のようなもの、エレメンタル。低級の精霊。若干の意識を持つがあまり賢くない火の精霊)を召喚して燃やし尽くし、オーラを無に返します。
それは文字通り無であって、全く何もない状態に戻ってしまうわけです。
実は、人間の魂も似たように「捨てられる」時があります。それは往々にして、自分の大元になったグループソウルの集合意識によってそのような決断がなされることがあります。分霊を作るという決断をするのもグループソウルの意思だとすれば、消滅させて無に返すと言う決断をするのもグループソウルの集合意識なわけです。
グループソウルとは言っても、それ自体で大きな意識体を形成していて、それはそれで一人の個としての意識を持っていますので、分霊からしたらグループソウルと言うことになりますけど、側から見ればどちらも独立した個になります。違うのはオーラの保有量で、分霊になるときはその目的に即して割合が分かれますけど、ほんの数%のこともありますし、30%のように大きく分かれることもあります。
そのように分霊を作る際に、分霊として転生が目的ではなくて、もう不要なので消滅させるために分霊のようにオーラを分離させることがあって、そのように分離された意識は大抵の場合はとても重くて黒いオーラを有しておりますので意識としては眠ったような状態に落ち込んでおり、なんとなくおぼろげながら周囲の意識が見えているだけで、半ばうとうとしており、良くわからないままに集められ、火が用意され、半ばうとうとしたまま火で燃やされて無に返るわけです。無に帰った後はもちろん意識としては何もなくなり、文字通り、何もない空間に帰するわけです。
そのように、割と火の儀式というのは残酷なことをするわけですけれども、最近は単にファッションあるいは習慣のように行われているような気が致します。そもそも、元の意味合いにおいて儀式を行えるような人もそれほど多くないのかもしれませんから、あまり気にすることはないのかもしれません。
地上においてはそんな感じな気が致しますけど、天上界などでは依然、元の意味合いでの儀式が行われていて、分霊が地上に転生した後、それがグループソウルに戻る場合もあれば地上で転生をそのまま繰り返す場合もあるわけですけれども、グループソウルに戻った際、自分はグループソウルの中に溶け込んだとしても、その部分があまりにも黒くて重々しいオーラになっていたら、火の儀式で取り出されて無に返されてしまう可能性も大いにあるわけです。
地上で転生をして経験を積んだ結果、それがグループソウルにとってプラスとはみなされずに負債として切り離すべきと判断された時、そのオーラは文字通り切り取られて、火の儀式で無に返す、ということが普通に行われています。
あるいは、自分のグループソウルが作り出した分霊に責任のあるグループソウル側としては、そもそもグループソウルに返さずにそのまま消滅させてしまう、という決断を下すかもしれません。とは言いましても私の周りではそういうことはほとんどないように思いますので事例としてはそれほど多くはないように思いますけど、一応、理屈及び選択肢としてはあり得るわけです。
人は、転生などないと思って好きに暮らしていたり、あるいは、転生があるからと言って来世の転生を見据えて生活したり、あるいは転生のラットレースから抜け出すべく修行していたり、色々ですけど、それぞれに真実があって、例えば、もはや消滅させられてしまうような魂にとってみれば確かに転生などないというのは真実な訳です。
どうして世界がそうなっているかというと、ある程度は、この世界は「実験」であるからで、うまくいけばその人生はグループソウルに取り入れられますけど、「失敗」となれば捨てられてしまうからです。
そのような儚い人生と魂があるこの地球は、素晴らしい世界である一方、それなりに残酷な一面も持ち合わせているのです。
実際はそんなゼロイチではなくて、中間で、なんとなく継続、という場合も多いようには思いますのでそれほど心配はいらないのですけど。消滅になるのは大体5%とかでしょうかね?
捨てられてしまったとしても完全には無駄にはならず、エネルギーとして活用され、存在している霊魂に取り込まれて活力として利用されるようになります。ただ、その際はもはや意識とかはなくて単なるエネルギーになってしまっているわけです。燃料として、生き延びて存在している魂の活力になるわけです。
それはグループソウルによる決断になりますのである程度の個性が出て、ある意味、民主主義みたいにグループソウルの意見が多様にある中で優勢が決まって決断が下されるわけです。ですから同じような魂でも継続の場合もあればその出自に応じてそうでない場合もあるわけですが、あるいは、グループソウルに戻さずに放置、ということもあります。この最後の場合はいわば見捨てられた状態になって、そのまま転生を繰り返す場合もありますし、あるいは運が良ければ他のグループソウルに再統合されたりしますけど、そうでなければうやむやになって「意識」を失い、やがて自然に無に返ったりします。割と見捨てられた魂は彷徨い歩いて何者でもないただのオーラの塊になって、意識はほとんどなくなり、そのまま何百年も放置でぼんやりと漂うということもあれば、やがては火の儀式に巻き込まれて無に返る、という場合も往々にしてあったりします。
一方で、「意識」を保ったまま再度グループソウルに戻ることができて、更にはグループソウルの方からも歓迎されるような魂は割と優秀な方で、それほど優秀でなくても同じ出自の魂はグループソウルで基本的には受け入れてくれるわけですけれども、その中でも、グループソウルに再統合する際にその人生経験が豊かな経験値となってグループソウルに還元できる優秀な魂は実のところそこまで多くないわけです。
一方で、何も目的も持たずにぼんやりと生きていた魂はグループソウルの方からも大して歓迎されず、実のところそれが割と普通ですのでグループソウルの方からすると何も変わらず、と言ったところではありますけど、あまりにもドス黒いオーラにまで波動が落ちて歓迎されない程度が度を超えると拒否されたり、あまりにも酷い場合は火の儀式で消滅の対象になるということです。
べつに、転生なんてないと思って自由に暮らすのは各自の自由ですけど、実のところ、この世というのは割と残酷にできていて、死後に、思いもよらず自分が消滅の対象になって火の儀式で無に返される、なんてことは割と普通にあるわけです。その時も、誰かが罰を与えるとかそういうことではなくて、あくまでもこの世界は自己責任ですから、自分もその一部であるグループソウルの集合としての意思で「もういらない」とみなされて判断されるわけですけど、消滅される対象である魂もグループソウルの一部でありますから自分で自分の消滅を選んでいる、と言えなくもないわけです。そうは言いましても消滅を選択する場合はグループソウルとしての全体の意識が優勢に働きますから消滅させられる部分の分霊相当の一部のオーラの魂からしたら消滅の宣告を受けるような受け身の形に見えるかもしれませんけど、そう見えたとしても、実際には自分の属するグループソウルの全体としての選択でその一部の魂の消滅が選択されているというわけですので、それは、自己責任として自分で消滅の判断を下していると言えなくもないわけです。
天使たちが行っている火の儀式(に似たようなもの)は基本的にそうして自分のオーラである魂の一部が対象になりますけど、最近の真言宗の護摩・ホーマやヒンドゥのプージャは単なる形式あるいは周囲のオーラを浄化するという意味合いが強いように思います。空間の浄化、という意味合いですね。
天使が行っている火の儀式においても必ずしも自分のオーラだけが対象ではなくてどこかで拾ってしまって自分にくっついている変なオーラも消滅の対象になりますけど、天使たちの場合はオーラに敏感ですのでそのようにオーラを拾うということはそれほどないように思うのです。あるとしても仕方なく意図的に拾ってしまうくらいですかね。
火の儀式においては上に述べてきたお話が基本で、それに加えて、必要に応じて自分の周りに漂っている不浄なオーラも火の儀式で消滅させて無に返すわけです。
火の儀式は地獄みたいな苦しいものではなくて、消滅させられる方は割と一瞬で、断末魔とかも全くなく、割とあっさりと消えてゆきます。心地よいとかいうこともなく、ただ単に、ジュワっと蒸発するかのように空間に無に消えてゆきます。罰とかもなくて、単に消滅するだけです。
ただ、自分が消滅するとわかってから消滅するまでは、魂にもよりますけどある種の悲しみを感じたりもするようです。消滅した後は無に戻るのでもはやどう感じたかを聞くこともできないわけですけど、消滅が一旦は決まってから取り消しになって助かった、という魂はいますのでその時の気持ちは聞けるわけです。
この世を一度きりのものと思って転生などないと思って生きている人も割と大勢いますけど、本人が自覚しているかしていないかはともかくとして、実のところ、確かに、5%くらいの人あるいは全部とは言わないまでも魂の一部には転生がなくて消滅させられてしまうわけです。
この世界というのは時に残酷で、無情で、それ故に生の輝きが出る、というのはそうなのかな、とも思います。
そんな世界が悲しいか・・・ というとそうでもなくて、無に返ることも、新たなる創造も、持続も、全てが完璧で、不足なく、多すぎることもなく、全てが完全調和の元に行われておりますので、充実していて、満ちていて、全ては意識の光で照らされていて、そのような割と残酷な現実をも含めて神の光が照らしている、とも言えるわけです。
そんな世界は生の活力に満ちていて、美しくて、儚さの中にも永遠の中にもどちらにも等しく神の健在があって、存在というものの移り変わりの全てにおいて神の御心が体現されていて、ある意味完璧で、満ち足りている世界なわけです。
その、満ち足りている世界の一側面としての消滅があったとしても、完全なる世界の調和の元では、輝かしい激しい消滅の悲しげな煌めきであると同時にサイクルの一部を司るほんの僅かな煌めきにすぎないとも言えるわけです。美しい完全調和の世界にて、一時、激しく輝く消滅の光。混沌としていて苦しくもあり煌びやかでもある一瞬の消滅、それが火の儀式に込められているわけです。