子供の頃は毎日が楽しくて感謝と喜びに満ちていた

2022-02-19 記
トピック:スピリチュアル: 回想録

最近の私は日常生活に嬉しい気持ちが満ち溢れていて何気なく感謝をして喜びが何度も湧き上がってくるような状態なわけですけれども、ふと思えば、子供の頃も同じように、日頃から何となくとも毎日が喜びに満ちていて充実していて、世界が輝いていたように思います。

それがいつしか呪われたり、それで精神的な鬱になったり、無意識のトランス状態によく陥るようになってしまったりして、なかなかに苦労しましたけど、ようやく、子供の頃の喜びに満ちた状態に戻ってきたように思います。

記憶では子供の頃はとても楽しかったように覚えているのですが、実際の状態としてそのように同じような喜びに満ちることはしばらくなくて、それを目指していたわけではないのですけど、ふと気付けば、同じように喜びの毎日の状態に戻っていました。

ふとした、何気ない日々で、例えば、単に階段を降りているだけで自分の部屋だけでなく他の家や壁、他の人の部屋、その周囲にある全てに対して「有難いなあ」と思えるわけです。

特に理由なしに、存在しているだけで、有難いのです。

存在全てが有難い、ということもできますけど、これは条件付けのある感謝ではなくて、存在そのものに対する感謝なのです。強いて言えば「満ちている」ことに対する感謝で、周囲の全てが存在している、それだけで「有難いなあ」と思えるわけです。

思えば、子供の頃は、同じように周囲の全てに対して「有難いなあ」と思っていたように思います。学校に行って全てに有り難く思いながらキョロキョロしていて、しかも、笑顔でしたので、私が同級生の女の子の方を見ると、私に笑顔で見られた女の子は(自意識過剰なのかもしれませんけど)、「あれ? 私のこと好きなのかしら?」と思ってしまったりして、私は何も気にしていなくて視線を向けただけなのに勘違いさせてしまったりすることが良くありました。最近もそういう節がなくもないのですけど流石に年ですのでそんなに勘違いされることはないですけど。

そうして幸せに生きていても、他人は構わず呪いとかで攻撃してきたり、エネルギー・ヴァンパイアがしつこくつきまとってきてエネルギーを奪おうとしてきたりしましたので、スピリチュアルが言うように「波動の法則」とやらも現実世界では必ずしも正しくなくて、確かに、現実化と言う側面では波動の法則が成り立つのですけど、カルマの種類の中にはプラーラブダ・カルマというものがあって、一度発動してしまったカルマというのはそのまま継続しますので、近くに既に存在している呪いとかエネルギー・ヴァンパイアによる攻撃とかはしっかりと対処する必要があるわけです。

子供の頃はあまり対処方法がわからなくていいようにやられてしまったわけですけれども、それもこれも、学校生活という「逃げ場のない場所」にて攻撃者が執拗に嫌がらせができるような環境が用意されていて、攻撃者が著しく優位にある環境にあったのが原因と言えます。大人でそれなりの都会に住んでいるのであれば人間関係は自分で選べますから呪ってくるような人とは付き合わなければ良いですし、エネルギー・ヴァンパイアも同様に避ければいいわけです。会社は長く勤めるべきとか世間では言われていますけど実際のところはエネルギー・ヴァンパイアが上司の場合は搾取され続けてしまいますのでそんな環境で働くべきではなかったりします。

おそらく、子供の頃は多くの人が笑顔で生活していて、やがて毒されてゆくのかなと思います。

概ね子供の頃は生活に選択肢が少なくて、精神的なことに理解の薄い大人に囲まれているとこのようなお話が理解されずに放置され、せっかくの子供の笑顔と可能性が次々に潰されているように思います。

お金と物欲と性欲にしか興味のない親の子供として生まれる場合、精神的なことが理解されずに苦労します。それはそれで私の場合は学びでしたけど。