スピリチュアル的なインスピレーションや声あるいは映像で知った物事を実際にそうであるか確かめることはとても重要に思います。
これはある意味、三次元世界の制約こそが真実に導く有効な手助けとして働いているとも言えるのです。この三次元世界が如何にうまくできていて、三次元という制約があるからこそ、スピリチュアルな事柄を優先しがちな一部のスピリチュアルな人たちを真実に導く効果があるわけです。
この三次元の制約がなければ、インスピレーションで得た事柄をすぐさま真実と見なして判断してしまう人が一定数いて、それではある程度のスピリチュアルなレベルにしか到達できなくて、何某かの方法で真実を確かめるということをそれなりにしなければ何が真実か見失う危険性があるわけです。
実際、色々な事柄が見えるからと言ってそれを確かめもせずに真実と見做して判断する人は大勢いて、確かに、そういう人の中にはかなりの確率で見抜くことができる人がいるわけですけど、それはほとんどの場合、100%ではないわけです。100%で見ることは他人の理解という観点からは100%は不可能で、自分が知っている限りにおいて自分の文脈で理解することしかできないわけです。それは時に深い理解ということもあるでしょうけど、本当の意味での理解をするためにはオーラの融合をしなくてはならず、オーラの融合をすると自他がなくなって相手のカルマと自分のカルマとが一緒になってしまいますから、実際のところそれは理解というよりも単に融合ということになってしまうわけですけど、本当に理解するためにはオーラの融合をして自他を無くしてしまう必要があるわけです。
ですけど、この世のスピリチュアルな法則に基けば、オーラの統合というのは一番やってはいけないことで、スピリチュアルなルールとしてオーラの統合は禁じられています。
とは言いましてもそれはいろいろな流派があるでしょうから必ずしもそうではないのですけど、この世の生命というものは個というものを体験して個別の視点を持ちそれぞれの経験を通じて各々が様々な道を探求するのが本筋であって、それは理解するために「内と外」をわざわざ作り出して外側から見ることで全てを理解しようとしているわけですので、オーラの融合をして相手を理解するというのは本来やりたかったことをギブアップすることに等しいわけで、本当に知ろうとしていたことを知れなくなってしまうことにすらなってしまうわけです。実際のところ、オーラの融合をすればその相手と一体になることで相手のことを知ることはできますけど、それは単に相手と同じ状態になったというだけで、本当の高い次元における理解をしたということにはならないのです。そもそもそれぞれが違う経験をしていて、道は違っていて、お互いに学ぶものが違うのにも関わらず相手と混ざり合う必要性がそもそもないわけです。
これは家族や夫婦であっても基本はそうで、そうは言いましても夫婦であればある程度はオーラは混ざり合いますから、お互いの経験を少し交換することで経験に幅を広げる、というのは生命の知恵と言いますか、古代から伝わるあるべき姿ですので、その男女関係や夫婦関係はここでは問題にはしていません。夫婦や家族の関係はオーラも含めた深いところで繋がることになりますので、選択には慎重さが求められて、それでも、夫婦であったとしてもいうほどにはオーラが混ざり合わない、というのもそれはそれで現実としてありますのでそれほど問題にする必要のないことであったりします。
そのように、オーラの統合によって相手を知るということを除いたとして、様々な方法でスピリチュアルなインスピレーションを確かめることが重要に思います。
ついつい、オーラの融合という簡単な手法に逃げてしまう時期もあるのですけど、実際のところ、オーラの融合で相手のことを知る際には自分のオーラと相手のオーラとが部分的に一致してしまいますので情報をこちらに引き寄せた時に相手のオーラが自分のオーラに混ざってしまい、自分のオーラが時にかなり汚れてしまうことになるわけです。それと同時に相手のカルマも部分的に引き受けてしまうことになりますので、良いことは一つもありません。相手のことを知ろうと思ってオーラ融合をすればするほど自分のオーラが汚れてゆき、逆に、相手がオーラを貰って元気になる、なんてことすら時にはあったりします。
オーラ融合を除けば、物事を理解する基本は、普通に現実の世界で見識を広げることですね。あまりにも当たり前すぎて、スピリチュアルな人に言わせれば「なーんだ」と思ってしまうことかもしれませんが、現実の世界で実際に何がしかに対して直接的に肉体的にアプローチして物事を確かめることがとてつもなく重要に思います。
例えば人間関係で何某かの問題の原因はこうである、という情報を得たとします。スピリチュアルな情報は一回で鵜呑みにすべきではなくて、実際に、現実の世界で裏を取ることがとても重要に思います。裏を取るまでは「まあ、そうかもしれないですが」くらいに軽く捉えておくのが良いように思います。
その他には、幽体離脱してタイムラインを超えて確かめる、という方法もあるのですけど、それをしようとするとかなり時間がかかって、物事の根本に辿り着くにはかなり手間暇がかかりますし、手間がかかるわけには「なーんだ」「ふうん」「へえ。ああ、そうなんだ」というくらいの大したお話ではないことがほとんどで、大抵の場合は本人が大げさに考えているだけだったりしますので、皆の悩みとか人間関係の理由とかのほとんどは大したお話ではないのだなあ、と思っています。物によっては重要なものもあったりもしますけど、本人にとって重要と思っていることも含めて、もはや興味がなくて、ほとんどの場合「へえ」という感じで淡々と捉える程度のお話で、苦労する割には大した悩みではないことがほとんどだったりします。本人にとっては大ごとなのかもしれませんけど。
そんな、大したことではなくても、一応、スピリチュアルな観点からすると「確かめる」というのは重要で、大したことがないインスピレーションであれば確かめる必要もないということでスルーすれば良いのですけど、一応は知っておいた方がいいかな、というお話に関しては確かめた方がいいわけです。それでも、知ってみれば大したお話ではなかったりしますけど、気になるなら確かめておくのも良いと思います。
重要なのは、スピリチュアルなインスピレーションを鵜呑みにしないということで、鵜呑みにしないなら確かめなくてもいいのですけど、真実かもしれないと思うなら一応は確かめた方がいいというわけです。
それはスピリチュアルなカウンセラーに何人も聞いてみて、一人聞いてそれっぽくてもすぐに鵜呑みにすべきではなくて、色々と当てる人に何人も聞いてようやく「まあ、やっぱりそうなのかな」と思うくらいで良くて、そうして何人も聞いていると一人一人言うことが微妙に違っていたりして、そうして比べていくと鵜呑みにはできなくなってゆきます。まあ、そのくらいの「そうかもしれないね」と言うくらいがちょうどいいのかなとも思いますけど、そのうち、慣れてくればどのようにやってきたインスピレーションが正しくてどれが間違っているのかなんとなくわかるようになりますので、その時はその時でその直感に従っても良い時が来るかもしれません。それでも確かめることは基本として重要ではありますが。
スピリチュアルカウンセラーによっては物事を断定的に捉える人もいて、聴く側としては「そうなのかな」と思いがちですけど、案外、そのような自信の強さと真実さとはそこまで関係なかったりします。本当っぽく聞こえたとしても裏を取ることは重要に思います。