怨念と浮遊霊は割と同じように認識される

2022-03-15 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

怨念は割と思念だけが残ったもので、浮遊霊の場合は思念を発する霊体がふわりと漂っているものです。浮遊霊が怨念を出すこともあればそれほどでもない時もあります。

この両者は、違うと言えば違うのですけど、感覚としては割と似たように感知されます。

怨念は基本的に特定の感情の思いだけしかなくて、深い思索とかなくて、単純な受け答えっぽいこともできたりしますけど単に反応しているだけでしかなくて、高度なコミュニケーションは当然不可能です。怨念が溜まってゆくと思念体になって思考っぽいものを持つ場合もあるようですけど私はあまりその種のものを見たことはないですね。噂には聞きますけど、私とはあまり関係がないようです。

一方、浮遊霊は怨念があるときもあればそうでない時もあって、浮遊霊の場合は割と生きている人間と同じです。笑ったり喜んだりすることもあれば、怨念を発している時もあります。

この種の、怨念を発しているような浮遊霊の場合、単にそこらに転がっていたりぷかぷかと浮いているような怨念と割と見分けがつかなかったりします。

どちらにせよ、不意に、脈略もなく何がしかの思考あるいは感情として自分の中で認知されますから、最初は何だろう、と思ったりします。

ですけど、そうして脈略のない思考を感知するのは普通のことで、耳で雑踏の音を聞くのと実は変わりがないわけです。町を歩く時に様々なものが目に飛び込んでくるのとそう変わりがないわけです。

それは文字通り、思考を思念波として感知しているわけで、感知することで多少は影響されたりはしますけど、基本的には、それは自分の外側のものな訳です。

目とか耳の場合は感受したものが外側だとはっきりと分かりますけど怨念とか思念というものは自分のものとして捉えてしまいがちで、やもすると、自分がとっても汚い人間だったり卑しかったり怖い人間なのかもしれないと自己嫌悪に陥ってしまうこともあるかもしれませんけど、実際のところ、それは目で見て耳で聞くのと同じように外の思念波を感知しているだけですので、自分のことではないのですよね。

もちろん、目で見たり耳で聞くのと同様に感受したものを自らの地肉として受け入れるのであればそういった思念波も同様の効果があって、受け入れるのならば自らがその受け入れたものへと変わってゆきますけど、受け入れなければ、それは消えてゆくだけなわけです。

この種のお話では「心が自分」と教えないことが重要で、心とは単なる感受装置だと教えることが肝心なわけです。日本語の心というと幅広くて、ここで言っているのは思考としての心は自分ではない、ということです。思考したり感じる心は本当の自分の「道具」にすぎないわけで、本当の自分というものは思考(としての心)ではなくてもっと奥深いところにあるわけです。