うまくいかなくて放置されたタイムライン

2022-03-21 記
トピック:スピリチュアル: 歴史

先日の続きです。

サマーディの意識がなくても魂の側が意識していることが多々ありますけど、その場合、魂の指示が顕在意識にうまく届かなくて人生がうまくいかなかったりします。

サマーディとしての意識がある(向いている)、魂が意識しているタイムラインとそうではないタイムラインとは決定的な違いがあります。顕在意識としてはそうは変わらないのですけど、奥深いサマーディの意識がフォーカスしているタイムラインの場合は奥深い意識と繋がることができます。繋がる時には、サマーディの意識から「見られている」「動かされている」という感覚があって、顕在意識と潜在意識であるサマーディの意識とが一体となって短期視点と長期視点の両方で人生を生きることができるわけです。

一方、魂であるところの奥深いサマーディの意識が興味を失ったタイムラインというのがあって、そのタイムラインであったとしても自分(のようなもの)が存在しているにはしているのですけど、一応存在している、という程度のお話で、それは、割とゲームのNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)のように顕在意識だけで動く存在になるわけです。奥深い意識が興味を失ったタイムラインは、残りの人生は慣性で生きることになって、それまで生きてきたカルマの結果が継続します。いわゆるプラーラブダ・カルマ(一度発動してしまったカルマはその終わりまで動き続ける)によって生涯が終わるまで続くわけです。

意識が向いているタイムラインは意識に自覚があります。向いていないタイムラインは自覚があまりないわけです。意識が向いていないタイムラインであっても本人は自我があったりして自分というものがあると思っていたりもしますし、悩みなども普通にありますけど、それらは全て顕在意識でのお話であって、顕在意識はいつでも存在していますから自分というものがあると思うかもしれませんけど、奥深い意識が興味を失ったタイムラインにおいては人生というものは慣性で続くわけです。

魂であるところのサマーディの意識が興味を失ったタイムラインは基本的に放置されるわけですけど、人生というものは継続して、割と自動的なものになります。悩みも継続しますし、楽しさも継続します。新しい悩みもあるかもしれませんし新しい楽しみもあるかもしれません。どちらにせよ、サマーディの意識が興味を失った人生というのは顕在意識だけで生きるわけです。ちなみに、ここで言っているタイムラインの放置とは本人にとってのものであり、他の人にとってのタイムラインは継続します。タイムラインは大勢で共通のものだからです。

サマーディの意識と繋がっていない人生であったとしても、顕在意識の決断によって修行をしたりして再度繋がることもできます。そうなると、顕在意識の側からすると「繋がった」ということになりますけど、サマーディの意識からすると「繋がった」というだけでなくて、サマーディの意識からすると「認知の範疇に入る」という違いがあって、しかも、「興味の対象」にも同時になるわけです。繋がると同時に興味を持ち始めて、認知され始めます。そうすることで人生が自動的なものから能動的なものへと変わってゆくわけです。