サハスララにオーラが集まって静寂の境地が現れて、更に、エネルギーが高まって身体中に活力が満ちた時に、真実なる純粋な意識とそうでないものを分別あるいは識別する必要があるように思います。
これをしないと、ただ単にエネルギーが高まってアストラル次元の精神エネルギーが高まっただけになってしまいがちで、それによってもう少し肉体に近い次元に属するプラーナのエネルギーも高まるので健康的な生活は送れるわけですけど、それだけでは更に次の段階には進めないように思います。
私の今の課題はこのあたりで、境地の中に何か壁のようなものがあって、瞑想して静寂の境地になってエネルギーが高まっても、どこか効率的でないような、少し腑に落ちないものを時々感じていました。それでも基本的には問題ないわけですけど、ちょっとした、違和感とまではいかないですけど、「ん?」という、ちょっとした感じは時々感じておりました。
どうやら、その感覚は、静寂の境地でエネルギーが高まった時に上位の次元から降りてきているエネルギーが元々の純粋な形から変容してアストラル的な精神エネルギーに変容してしまっているが故に起きている、ということにふと気がつきました。
神智学系の知識によれば、内なる魂との接触が確かになるにつれて瞑想が深まり、光が強まる経験をすると言います。しかし、それはまだ高次からの光が降り注いでいるというくらいのお話であり、気をつけないと、その光がアストラル面に注ぎ込まれて精神を膨張させ、いわゆる迷妄(グラマー)を拡大させる危険性があると言います。それを防ぐために、真実なるものと非真実なるものを識別すべきであると言います。
彼らが迷妄(グラマー)を避け、真実なるものと非真実なるものとを識別することができるならば、その時こそ流れ入る力は、(中略)、彼らの生を溢れるまでに満たすであろう。(中略)そうすればもはや自己利益や自己主張や自己的野心が入り込む余地は無くなるであろう。「至聖への道(ジュワル・クール大師著)」
この、真実なるもの、と、非真実なるもの、というのは、ヴェーダンタで言っているニッティヤ(真実、ブラフマン)とアニッティヤ(ア、は否定の意味。ニッティヤではないもの。真実ではないもの。ブラフマンではないもの)を識別(ヴィヴェーカ)する、ということと同義だと思います。
これはヴェーダンタで基本と言えば基本のお話ですけど、基本なればこそ、その基本がこのような微細な感覚のところで効いてくるわけですね。この種のお話は何度も聞きすぎて、「まあ、それはそうだけど」と割とスルーしがちでしたけど、ここに来て、ふと、実はそれこそが次の段階へ行く「見えない、薄い、微妙な壁」になっていたことに気付くことができました。
気づくまでは、基本的には調子が良いはずなのにちょっと何かが、微妙な何かが少し違うような、そうでないような? というような不思議な感じでしたけど、この(最後かもしれない)微妙な壁は、ヴェーダンタでの全くの基本中の基本であるヴィヴェーカ(識別)のお話によって抜けられるような気がしてまいりました。
神智学の知識に基づけば、このヴィヴェーカをすることで迷妄(グラマー)を避けることができると言います。グラマーというのはなかなか神智学特有の表現ですけど、一般的に言えば、要はエゴの拡大、ということだと思います。とても微妙なところで、気付きにくい形でエゴの拡大の要因がまだ残っていて、もう大丈夫と思っていても、実のところ、エゴの拡大の危機というのはまだまだ残っているということだと思います。
高次元から降りてきているエネルギーそのものの純粋な部分と、その純粋な元のエネルギーがアストラルの精神エネルギーに変容しているものとを識別(ヴィヴェーカ)することでエゴの拡大を防ぐことができて、そのことにより、次の段階へと進むことができるのかな、という気がしております。
瞑想で、単に静寂の境地になったとか、エネルギーが高まったとか、それ自体は素晴らしいことで人生を豊かにしてくれて、それ故に感謝したり自愛の気持ちになったりして、毎日を「ありがとう」の気持ちで生きることができるようになるわけですけど、その段階ですらもまだ高次のエネルギーが常に精神エネルギーに変容され続けていて、というか、きっとその変容自体は今後もずっと続いて、それ故に、アストラルな精神エネルギーというのは常にヴィヴェーカ(識別)をしないとエゴの拡大を微妙なところで蓄積することになって、最初は気付かない部分で細かく積もるだけですけど、きちんと識別しないと次の段階へは進めない、ということなのかな、という気が致します。
これは、頭で考えて識別というよりは、瞑想中に感じて、これは純粋なニッティヤ(真実、ブラフマン)、これは少し純粋ではない精神エネルギーのアニッティヤ(真実ではないもの、ブラフマンではないもの)と、感覚で見分けるものだと思います。