瞑想の目的も、精神修行の目的も、色々と悩みがあったり解決を求めていたりもするでしょうけど、結局、行き着くところ、愛だけ、感謝、ありがたい、ただそれだけが行き着くところなのだと思います。
仏教で輪廻を抜け出すことが目的だったとしても、その抜け出すこと自体がゴールではなくて、感謝と愛に満ちている自分になることが(一応の)ゴールだとすれば、そこに至れば、感謝、ありがたい、ただそれだけしかないわけです。
何であろうと ありがたい ありがたい ありがたい ただそれだけしか世界にはないわけです。
言い換えれば、 愛、それのみ ということでもあります。
じゃあ、それでは何故この世に悪が色々とあったり酷い現実があったりするのかというと、それは、そんなものなわけです。そんな酷い現実もあります。もちろんその酷い現実は存在して、酷くて、苦しいですけど、そんなものなのです。
酷い現実を超越した愛、と酷い現実を超越した感謝、全てを超越した ありがたい という気持ち、それがこの世界の現実なわけです。
これは、現実に目を背けて盲目的に感謝で現実を覆い隠せと言っているのではなく、むしろ逆で、はっきりと認知することによって現実を直視し、それにより、全てが愛だと悟ることができるわけです。
まあ、絵空事に聞こえる方もいらっしゃるでしょうけど、そもそも、この日本というのが基本的に温室なわけですから、どんなに日本で酷い現実だったとしても世界の悲惨な状況に比べれば遥かに天国で、程度の差を見れば日本に住んでいるだけで感謝に満ちた生活ができるはずなのです。基本的には。
それに、酷い現実であっても救いはあって、認知によって現実を変えて行ける力というものが人間にはありますから、感謝と愛によって現実を文字通り ありがたい ものに変えてゆくことができるわけです。
そうして、酷い現実も良い現実になり、実際のところそれは本当に現実が変わったというよりは認知が変わったということでありますけど、そうして認知が変わることによりこの世界は愛と感謝に満ちたものだと認識することができるわけです。最初から愛と感謝に満ちていたことに気づけるわけです。