静寂の境地と感謝との合一

2022-04-07 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

言い換えれば集中と観察の合一、ということになります。静寂の境地が集中で、感謝は観察に対応します。一見すると静寂と集中、感謝と観察とで全然違うお話ではないかと思われるかもしれませんけど、実のところ、これら4つは密接に関連していて、それぞれ、集中から静寂、観察、そして感謝、と全て関連したお話なわけです。

世間では、瞑想のことが集中なのか観察なのかどっちなのか、みたいなことで言い争いが起きたりしていますけど、(場所によりますのであまりそんなこと聞いたことがない方も多いかもしれませんけど)、実のところ、その両者とが高まって合一することが必要なわけです。ですから、「(集中と観察と)どっちなのか」みたいなお話はあまり関係がなくて、その両方ともが大切なわけです。

個人的には、集中が基本で静寂の境地が先に来て次に観察、そして感謝という順番かなと思いますけど、もしかしたら人によって愛の方がやりやすい、という人もいらっしゃるかもしれません。それは人それぞれだと思います。

どちらにせよ、それらの要素が合わさって合一するところに関してはおそらくはどの道を通っても同じだと思っております。

集中が基本にあれば静寂の境地になって、単なる静寂からやがて観察が現れて、観察するようになってから安定してゆくと愛と感謝が溢れ出してくるわけです。

ですから、個人的に思うのは、いきなり最初から「愛しましょう」とか言っても、それはなかなか難しいと思うのです。それよりは、順番を追って、まず集中から始めて、集中すれば認識が高まって仕事もできるようになって充実して、ストレスも減り、そうこうしてゆくうちに静寂の境地が現れて悩みも少なくなり、そうすると不意に観察の状態(ヴィパッサナー)が始まって、それが更に安定すると愛と感謝が溢れ出るようになるわけです。

確かに、世間で普通に言われているように愛は大切なわけですけど、いきなりの行為として愛とか感謝とか求められても、それは単に表層のお話になってしまって、表層の躾で自分自身を覆い隠してしまうことにもなってしまうかもしれません。スピリチュアル的な本質は自己の本質を見出してゆくことですので、愛とか感謝を重視した結果として自己を躾という覆いで包んでしまうのではなかなかスピリチュアル的な成長は厳しくなってしまうかもしれません。ある程度の躾や道徳はもちろん必要ですけど、準備の整っていない人を厳しく躾けるというのは、時に偽の聖者を作り出したり、表層では良い人でも内面は嫉妬の塊で急に闇落ちする人を作り出すことがあります。

愛は大切ですけど、あまり愛を語りすぎずに、何かに集中させて成長させてやがて静寂や愛に辿り着かせる、というくらいが今の時代に合っているような気が致します。