アジナがモヤモヤしているとハートの観察が上手く働きません。ハートの観察はハートだけで行うものではなく、基礎としてのアジナの集中および清浄がないとうまく働かないのだと思います。ですから、ハートだけでもアジナだけでも不十分で、アジナの集中の観察とハートの愛と感謝の観察が揃うと周囲がよく見えてくるのだと思います。
これは、個人的な体験としては、アジナの付近が少しモヤモヤした状態から清浄になった瞬間によく見える(よく観察できる)ようになりましたので、それとわかりました。実のところ、おそらくは今までも同じようなことを経験してはいたのですけど観察はハートだという理解が足りていなくて、その実感が足りていなくて、今まではアジナが観察だと思っていたのでした。
静寂の境地になって観察(ヴィパッサナー)状態になるときは瞑想の基本である眉間に集中をするわけですけど、そうしてしばらくすると静寂の境地になるわけですけど、今までは、観察がハートだという感じにはなっておらず、ふと不意に観察状態に、まるで霧が晴れるかのように一気に切り替わっていたのでした。
それがここに来て、観察はハートだという理解と、ハートの観察とアジナの集中との融合こそが鍵だという認識に辿り着きました。
そして、ここでふと、インドのリシケシのヨガリケタンを創設したスワミ・ヨーゲンヴァラナンダの著作に似たようなことが書いてあったのを思い出しました。
「魂の科学」P414-416
その記述によるとハートというよりはサハスララ(ブラフマランドラ)が輝いていてアジナと協調、ということが主眼で書いてあって一見すると違うことを言っているかのように読めるかもしれませんけど、その記述と同時に、ブラフマランドラ(サハスララ)とハートが光の帯で繋がっている、みたいなことも書いてありますし、実際の霊視を表現することは不可能、と、但し書きが書いてありますので、私の感覚と同じことを違う表現をして記述しているだけかもしれませんし、もうちょっと違うことを言っているのかもしれません。そのあたり、本当のところは本の記述だけでは読み取ることは難しいですけど、少なくとも、この図は私の感覚に割と近いものがあります。
こういうのは、文字通り受け止める人だと「全く違うことではないか」と解釈してしまうのですけど、こういうのは表現は多数あって、実際に体験してみた後に他の人の記述を読むと「あれ、同じことなのではないかな?」と気づくことは多々あるのです。ですから、実際のところ別の体験かもしれませんけど、少なくとも、自分の体験の理解を深めるヒントにはなるわけです。