欲望に身を投じるか、欲望から離れるか、その二択

2022-04-17 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

世界は二極化すると言われていますけど、スピリチュアルにおいてもその二択があるように思います。

欲望を追求し、欲望を善しとし、欲望に身を投じるか。
あるいは欲望から離れるか、その二択な訳です。

これは、現在すぐに欲望から逃れられないのだとしても将来の目標としてどちらの方向に進みたいのかは明確に決める必要があるように思います。それによって道が変わってくるからです。

欲望を追求するということはエゴ(自我)の拡大の道を選んだということでもあります。欲望の拡大により、(実際は幻想でしかない)エゴ(自我)を「他人との区別」により満足させるのが基本戦略になります。この場合、他人と比較したり嫉妬したり言葉や物理的に攻撃したり、という行動を取ります。皮肉ったりディスったりして他人と自分がいかに違うのかを周知たらしめるのが行動原理になります。

一方、欲望から離れることを選んだ場合はエゴ(自我)の拡大を防ぎ、ヨーガの知識を基にしてエゴは本当の自分ではないことを理解して、本当の自分を見出すことでエゴを拡大する必要はないことを理解します。

欲望の道を選んだ場合は必然的に闘争の道になり、その行く末は国同士の戦争に至り、究極的にはそれは地球の破壊まで突き進むでしょう。

一方、欲望から離れる道を選んだ場合は愛と分け与えが基本となり、地球は平和になるでしょう。

前者の欲望の道であっても平和を目指す人はいますが、それは基本的な行動原則が分離になっておりますので平和といいつつも戦争の抑止にしかならなくて、戦争の抑止が失敗するか、あるいは今回のウクライナように宣伝によって片方が完全悪として見做される風潮ができてしまうと戦争が正当化されてしまうでしょう。欲望の道では完全に戦争を防ぐことはできないわけです。

欲望の道はスピリチュアルではないかのように思われている方もいらっしゃるかもしれませんけど、よくないスピリチュアルの例として、しっかりとスピリチュアルで理解する範疇に含まれていると思います。

欲望の道は他人と自分は違うという行動原理になりますから、ルールに従っていさえすればそのルールの合間を縫って自己の利益を最大化しても良い、という考え方に繋がります。

一方、欲望から離れる道の場合は行動原理が調和になりますから、ルールの合間の道が見えたとしてもそれが調和を導くのかどうかが行動の判断基準として働きますので、混乱を導くようなルールの合間の行動は取らないわけです。

少数の、ルールを一応守っていればいくらでもその間を抜けても良いと思っている自己の利益を最大化しようとする人たちの迷惑行為を防ぐために社会の多くのリソースが浪費されている状況がここ100年近く続いているように思います。

これは、日本だとこの程度で済んでいますけど外国は酷いもので、信頼関係なんてあるんだかないんだかよくわからないジャングル状態で、日本だからこのような道徳的なお話の是非が問われていますけど、外国だと「一体、何が悪いの?」と、問題の存在すら理解されない状況になっていて、問題が存在していることを理解されているだけでも日本の社会は外国よりも一歩進んでいると言えますけど、100年近くも続いている状況にしっかり対処できていないのはなかなか情けない状況のようにも思います。

まあ、この部分は私の主観ですけど。



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