物事は何であれ許されていて完全に肯定されているわけですけれども、真理を求める人の一つの落とし穴として、自己正当化して肯定してしまう、というお話があります。
実際のところ、全ては許されているという意味は自己正当化すらも不要なのです。
このあたり、ざっくばらんに表現すれば「頭を使わなくても良い」「頭で正当化しなくても既に肯定されている」ということです。
ですから、よくある落とし穴として、自分の行為を正当化するために理屈をこねてしまったりするわけですけど、本来のありのままの状態として、何であれ正当化されていて何であれ肯定されているのです。
世界は全てが許されていて、それは、頭でごちゃごちゃ考えて正当化するなどということは全く不要で、最初から全ては肯定されているわけです。
全く考えなくても溢れ出るハートの感覚で肯定されています。
それは、「そうである」という以外に特に表現すべき事項や条件が存在せず、何故に肯定されているかというと「それはそうだから」としか言いようがない肯定なわけです。
このあたり、そうは言いましても自己正当化してしまうのは人の常で、自己正当化してもしなくても全ては肯定されていますので、最初はどうしても自己正当化して自分の過ちを肯定しようとしますけど、本来、全てが許されていて全てが肯定されているものなわけです。であれば、わざわざ自己正当化などは不要なわけですけど、自己正当化したければやってみるというのもそれはそれとして全く問題なく許容されているわけです。その自己正当化というのは不要だとしてもやってみること自体に問題はないわけです。
ただ、何を求めているか、というところになりますけど、真理を求めているのであればそのような自己正当化のレベルに留まらずに真実を追い求めれば自己正当化の不要な肯定というところに辿り着きますけど、一方で、単に自分が楽になりたいとか苦しみから一時的に逃れたいだとか快楽に溺れたいとか葛藤を一時的に忘れたいだとか、そのくらいの渇望ですと自己正当化を延々と追い求めるという罠にハマってしまったりしますから、精神的な成長が停滞してしまうことになるわけです。
こういうことをいうと「それじゃ、犯罪者なども許容されているのか?」と聞く人がいますけど、根源の絶対者(アートマンやブラフマン)というレベルでいうとそれは許容されていて、ただし、絶対者の観点からすると不要なものは排除して無に返すということも行われますから、不要と判断されて無に返されても良いのであれば好きにすればいいのだと思います。そのくらいの根源のレベルにおいては何でも許されているわけですから、好きに生きたければ本人の自由にすればいいわけで、それ相応の結果が伴うだけのお話なわけです。