特に理由もなく、ただ嬉しいのです。
特に何があるわけでもなく、ただ愛を感じます。
特に対象があるわけでもないのですが、ただ愛を発します。
この世の中は完璧で、愛に満ち溢れていて、感謝をすればどこにでも愛が通じて、この世の全てが感謝と愛に満ちていることを実感します。
それはハートを中心にして体全体をも包み込み、周囲の空間に広がっている愛です。
そんな時にも、ちょっとした思考が出てきます。「これはひょっとしたら幻想かもしれない」「本当はそうではないのかもしれない」、みたいに頭で考えても、この愛を否定することはできないのです。「周囲の人全てが愛に満ちている気がするが、論理的に考えると、そうではない筈」そのように理屈では思うのですが、ハートの感覚でいうと全ての人が愛に満ちていて感謝でしかなくて、そうとしか思えないわけです。
実際に町に出てみます。お店では社交辞令の営業スマイルなスタッフがいたり、町には不満そうな人、幸せそうな人、何気なく歩いている人、ちょっと怒っている人、あるいは、よくわからない人、色々な人がいます。これら全ての人が悟っていて愛に満ちていて感謝に溢れている・・・ そんな気がしてしまうのですけど、頭で論理的に考えるとそんな筈はないと思ってはいても、ハートでは、全員が全員、愛に満ち溢れていると思えてしまうのです。
仕事などで他者の不快な感情を受け止めたとして、明らかに何か不満そうで怒っているようであったとしても、その受け止めと、ハートでの感情とはまたちょっと違うのです。人は、プライドが概ね高くて、傷付けられると怒ったり、反応したりします。ですけど、そんな小さな自我のレベルを超えたところで、他人に対して、ハートのレベルで、愛と感謝というものを感じ取れるわけです。
きっと、怒ったり何か不満な人は行き違いや理解の不足があるのであって、基本的には愛と感謝に満ちていると思うわけです。
実際のところ、この種の状態においては人に騙されやすいという面があることはよく知られていて、特に若いうちは人生経験が必要なわけですけど、それを乗り越えさえすれば、基本的にこの状態に留まることが愛の状態なのだと思います。
特に対象なく、愛を感じます。
特に対象なく、愛します。
これは、言葉で聞くと妙に感じられるかもしれません。愛というのは誰かから受けるものだという観念がある人は不思議に思うかもしれません。一方、愛というものは誰かに与えるものだと思っている人も不思議に思うかもしれません。
ですけど、そもそも、本来の愛というものは対象がないのです。
比喩的に、愛を感じます、とか、比喩的に、愛します、と言ってはいるものの、実際、対象はないのです。
日本語ですと、この種の愛を表現する言葉があまりなくて、愛というと恋愛の愛と思われてしまって対象ありきになってしまったりしますけど、元々ギリシャ語とかの古い言葉では愛というのは何種類もあって、日本語においても愛という言葉を使い分けるべきだとは思うのですけど、ここで言っているのは、特に対象もない根源の愛のお話なわけです。