神と人間は離れていない

2022-05-16 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

流派によっては神と人間とは相容れないものだ、みたいなお話がありますけど、神と人間は割と同一なのです。かと言って人間が何もしなくてもすぐに神かというと、そうだとも言えますしそうではないと言えなくもない、微妙な関係なのです。

人間が神と同一になり始めるのはサマーディ(三昧)の状態がある程度進んでからのことで、それ以前は、離れていると言えば離れているのです。実際には、本当のところは遥かなる過去から現在及び未来にかけて人間と神とは離れたことがないのですけど、認知として神を認識できない状態の人間が修行も何もしていない普通の人間の状態で、神を認識できなくなっているだけで実際は神の方は常に人間に寄り添っているのです。

流派によっては神を神格化して特別視したりしていますけど、本来、人間には神の本性が自生していて、ただ単にその神の本性が現れていないだけなのです。

このあたり、理論としてはヴェーダンタの言っていることは正しくて、ただ、ヴェーダンタの流派あるいは人によってはしっかりとこのあたりのことを理解していないあるいは体験が伴っていなくて、どこか言っていることの筋が通っていないことがありますけど、そうは言いましても、基本的な理屈としてはヴェーダンタの言っていることは正しいわけです。

ヴェーダンタの理屈を基本にして、実践の面でヨーガや禅などの修行あるいは坐禅や瞑想などを積み重ねれば次第に人間の本性が神であることを理解あるいは体感してゆくわけですけど、それはヴェーダンタが言っているように単に理屈だけだとか理解だけだとかいうものではなく、実際に自分の内面が変化して神の本性を表す、すなわちそれがサマーディということでもありますけど、サマーディに至ることで神の本性を知るわけです。

実際にはサマーディにも段階があるにはありますけどとりあえずの入り口として一時的でもサマーディに至ってしまえばこの辺りの理屈としては一切がクリアになって迷うことがなくなるわけです。

人間と神とが分離していると思っている間はまだまだ修行あるいは勉強が足りなくてそれは単なる頭の理屈だけでなく実際にハートの中および自分の体全体及び周囲の「場」をも含めて神の臨在と一体になるあるいは神の存在に含まれる状態になってこそこれらの本質を理解することになるわけです。

それは最初はハートの中の小さな体験から始まってサマーディの認知が広がってゆくわけですけど、次第にそのハートの認知は自分の体いっぱいに広がり、やがては部屋くらいの大きさあるいは十何メートルという範囲まで薄く神の認知が広がっている状態になるわけです。

そのような、神と自分の個としての自我(いわゆるジーヴァ)の認知が離れていないことと、それに加えて、「場」としての認知が加わること。このことにより神の臨在を感じることができるわけです。