とにかく唯物論者は精神的な事項を否定してきますが、単に鈍いだけですので、スピリチュアルな立場からすると(自分に害が及ばない限りは)何も気にせず無視するのが良いわけです。唯物論者なら、それはそれで個人の自由で好きにして頂ければ良いのですけど唯物論という自分の意見を他人に押し付けたり唯物論的ではないからと言って馬鹿にしたり唯物論をかざして他人を嫌がらせしたりして他人に迷惑をかけるべきではないと思うわけです。
物理的に目で見て認知できない事項を「ない」と判断するのは唯物論的で唯物論者はそれを科学的だとか主張しますけど、実際のところ、科学的に「ない」と言うのは間違っていて、科学の立場からすると、認知できないことは「あるかもしれないし、ないかもしれない」と判断するのが科学的に正しいわけです。ですけど、唯物論者は自分が認知できないものは「ない」と判断するのがまず科学的にも間違っているわけです。
唯物論者はとにかく「科学的」と言う言葉を使ってきますけど、本当の科学は「まだ認知できていないもの」を否定したりしません。科学的にはまだ未知でわかっていないというだけのお話です。
そもそも、唯物論者が言っている「科学的」と本当の科学者が言っている「科学」は順番が全く逆です。
科学者は「現実」が最初に来ます。まず現実を肯定して受け入れます。そして「観察」をして、理論や実験およびデータを積み重ねて「こうではないか」と言う一般法則を導き出します。そうして裏付けられた事項がようやく理論になるわけですけど、理論になる前であっても「現実」はきちんと存在しているわけです。
一方、唯物論者の言っている「科学」は全くその逆で、「理論」として科学で認められたもの以外は「存在しない」と言って現実を「否定」しているわけです。
これは、同じ科学と言う言葉を言っていても意味合いが全く違ってくるわけです。
本当の科学者はかなり慎重で、そんな簡単に「ない」なんて断定したりしません。と言いますのも、証明問題で「ある」を証明するのは1つの例を提示すれば十分ですけど、科学的・数学的にきちんと「ない」を証明するのは全ての可能性を完全に網羅して全く可能性がないことを証明しなくてはならないので、「ない」ことを証明するのは現実の、特に物理などの分野においてはかなり困難であるが故に、きちんとわかっている人は「ない」なんてことはそう簡単に言ったりしません。
日本の大学教授などでも「ない」なんて言っている唯物論者がぼちぼちいて、私の通っていた大学でもそう言う教授がいましたけど、その一方で現実的な科学者がいて、きちんと科学とはどう言うものなのかを説明してくれた教授もいました。科学者と言っても色々なのですから、一般大衆が「科学」と言うものを誤解したとしても無理はないように思います。唯物論者たちは本人が鈍くて認知できないのだから「ない」と思うのも仕方がないかもしれませんけど、自分が鈍くて認知できないだけかもしれないという可能性を考えようともしないかその厳しい現実を受け入れるだけの度量がなかったりするわけです。
そんな小難しいことを色々言ったところで唯物論者は怒鳴ってきたり笑って見下したりしてきたりしますので、基本的に、そう言う人たちとは関わり合いを持たない方がいいのです。せっかくこちらが説明してあげても、何人も何人も同じような主張をする方と話しましたが、何故か共通して最後は「ワッハッハ。何を訳のわからないことを言っているのだ。訳のわからんやつめ」と上から目線で言って、理屈のお話から離れて感情的に頭ごなしに否定しようとしてくるパターンがとても多すぎますので、話しても大抵は無駄なのです。
概して唯物論者はエゴが肥大化していて自分が傷つけられることを極端に嫌いますし、自分の認知が他人から変えられてしまうかもしれない状況をヒステリーに拒否したりしますから話しても大抵は無駄で、労力の無駄にしかならないことがほとんどですから、そもそも近付かない方がいいわけです。
仏教やヨーガでもこの辺りのことが言われています。「不道徳な人とは、関わりを持たないこと」と。これは、否定ではありません。関係がないのだから放っておけばいいのです。
唯物論者は鈍いだけですから、そのうち気付けばその考えを改めたりもするでしょう。ですけど、今は、関わりを持たなければいいわけです。
かと言って、唯物論者と比べて自分が優れているとか思わない方が良いわけで。判断とかせずに、ただ単に興味を持たなければいいわけです。これは、優劣の問題ではないのです。どちらが優れているとか優れていないとか、そう言うことではないのです。
認知できないのだから本人にとっては唯物論的な世界が真実なのですから、ある意味、正直なのです。正直なのは良いことです。自分が認知できている世界に正直に生きている人は、こちらに害を及ぼさない限りは放っておけば良いのです。
唯物論者が良いか悪いかという判断をこちらから下すことをせずに、そのような他人に対する評価や判断をせずに、ただ単に関わり合いを持たなければいいだけのお話です。