その時、ふと何かを想像あるいは見ていたのですけど、不意に頭の中でパシンっという軽い銃声と共にその見ていた映像に散弾が当たったかのごとくヒビが沢山入って、その瞬間、見ていた映像が吹き飛びました。これは銃声のようにも聞こえますけど、人によっては瞬間的な稲妻、と表現する人もいるかもしれません。雷雲のようなゴロゴロではなくて、また、雷のように光が来たわけでもありませんでしたので私は雷のようには思えなかったのですけど、古いヨーガなどの書物を読むと雷がどうこう、とか、そのような表現もありますので、これを稲妻と表現するのもそう間違いではないと思います。
実際のところ、最近、この種の「割れる」あるいは「ヒビが入る」感覚が何度も頭の中でしていて、後頭部あるいは喉の付近、あるいは今回のように頭の前頭葉あるいは上方向だったりと場所はそれぞれですけど、ビシッという感覚及び割れる感覚、ひながかえるときに卵の殻が割れるような感覚が時々しておりました。
今回の場合、映像が割れたわけですけれども、映像が割れた今となって思うのは、この映像というのは人々が現実と思って生きているこの世界の偽りの姿であって、完全ではないものの、次第にその偽りのヴェールが剥がれてきていて、真実の世界に足を踏み入れ始めているのかな、という感覚です。
想像、あるいは、映像、というものは頭の中にイメージとしてあって、人々は、基本的にはその世界で暮らしているということです。
昨今、仮想空間がどうこうとか騒がれていますけど、そんな次世代のテクノロジーとは関係なく既に昔から、人々はイメージという籠の中に暮らしていたということだと思います。
瞑想をすることでその映像が壊れて、真実の世界が見えてくるということだと思います。
その真実の世界は平穏で、満ちていて、愛そのものではあるのですけど、今までの慣性でイメージの中で暮らしている人にとってみればその真実の世界というのは捉えどころのない混沌とした世界に見えるかもしれません。ですけど、実際は、逆なのです。真実の世界というのはありのままで、絶対の世界です。一方、イメージの世界というのは創造された世界です。人がイメージの世界を作り出して、大勢の人がその、他人あるいは自分で作ったイメージの世界で生活しています。
これはどちらが幸せかとか、そういうことではなく、イメージの世界で暮らすというのも選択としてありますし、真実の世界で暮らすというのも選択としてあります。
イメージの世界で幸せに暮らすこともそれはそれでありといいますか、この世界では割と大抵の人がこちらの世界で暮らしております。それはそれで幸せならばそれでいいのではないかと思いますし、私などが口を出すお話ではないわけです。
ですけど、もし、その人が真実の世界に生きたいと思うのならば瞑想をするなりスピリチュアルな探求をすれば良いわけです。全ては選択にかかっているのだと思います。