クンダリーニの上昇によるオーラの眉間への集中

2022-07-02 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想は集中のことだと言われますけど、考える意識である顕在意識の集中の他に、クンダリーニの上昇によるオーラの集中もまたあるように思います。瞑想の集中で喉から眉間へと繋がる時の感覚は、思考を集中しようとして意識を眉間に合わせているのとは別に、クンダリーニあるいは風船あるいは硬いゼリーのようなオーラが喉元のヴィシュッダ・チャクラから上昇して常にルートが繋がりつつ眉間にまでそのオーラが充満しているように思います。それを集中と表現するのならば、集中ということなのかなと思います。

よく、瞑想は集中なのか観察なのか、という「どっち」論が瞑想界で話題になって、時にそれが論争を湧き起こしたり、口論になったりしていますけど、実際のところ、瞑想とは両方でありますので、そのようなお話はくだらないと思うのです。

ただ、順番というものは確かにあって、最初はどちらにせよ集中から入って、やがては観察状態になって、その後、やはりオーラの集中による状態になるのかな、と思います。

この、最初と最後の集中は似ているようでいて別物で、瞑想は集中と言った時にこの最初の段階を意味しているのか最後の意味なのかでかなり段階が異なってくるわけです。

雑念が多くて眉間などに集中しないと意識が混乱してしまうような段階では、ひとまずは観察とかオーラとかは抜きにして、とりあえず顕在意識を集中して平穏な意識である無の境地が現れるのを目指します。

この段階で、時にゾーンとも呼ばれている極度の集中状態を体験して、その時、歓喜に満ちたりします。それは割と一時的な歓喜でありますし、感情的な喜びに満ちた彷彿感でありますので、このゾーンを目指して集中を繰り返す、あるいは、瞑想を繰り返すことになります。これは必ずしも座った瞑想である必要はなくて、アスリートや技術者などが対象に集中することでゾーンに入れば歓喜に満ちる、という種類のものです。もちろん瞑想で集中してもそのような状態になることができます。

この段階がまず目指す段階で、次に、平穏な無の境地が現れます。

平穏である無の境地は最初は一時的なものですけどやがて安定して、そうすると、一時的にではありますけど観察状態(ヴィパッサナー)になります。

よく、瞑想の流派の仕方でヴィパッサナーとか言われているのは本来はこの状態のことを意味するのかなと思うのですけど、実際、最初からそんな段階に達することはできませんので、名前でヴィパッサナー(観察)と言っていても、本人がたとえ観察した気になっていたとしても、瞑想の手段が手足や皮膚などの観察、ということであったとしても、それは実際のところ、五感の観察のことで、それは集中を基礎としているのです。対象としているのが五感である以上、五感の観察という意味であれば、これは流派にもよりますけど、五感の観察というのはまだ集中の段階ということもできて、まだ最初の段階であるわけです。

この辺り、用語にとても混乱があって、五感の観察であればヴィパッサナー(観察)と呼ばない方がわかりが良いのです。ですけど流派によっては五感の、例えば皮膚や手足の観察もヴィパッサナー(観察)と呼んでいるので瞑想の本質が分かりにくくなっています。

実際は、その五感を超えて、無の境地をも超えて静寂の境地に至った後に現れる状態こそヴィパッサナー(観察)と呼ぶに相応しいわけです。

流派によってはそのあたりをゴールに置いていますけど、実際は、ヴィパッサナー(観察)すらもまだ、途中の通過点に過ぎないわけです。

実際にヴィパッサナー(観察)の状態に達してみれば、その後、ハート・チャクラの目覚めによるハイヤーセルフの繋がりによって感謝と愛に目覚める段階があったり、更には、ヴィシュッダが開いてエネルギーが満ちるようになって浄化能力が高まったり、そして、アジナの目覚めという段階があるかと思います。

私はアジナにオーラがよく集まるようになってきましたのでそろそろアジナに変化が現れてもいいような気がしておりますが、今は、まだ様子見であります。